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「褒めてコントロール」の是非



「褒める」という行為。

褒める人が上で褒められる人が下という上下関係。褒める人は「評価する人」。褒められる人は「評価される側」の人。褒められるか褒められないか、良い評価を得られるか得られないかは上に立つ人の判断に委ねられている。

下に立つ者は何をすれば上に立つ者に褒められるか、何をしたら叱責されるかを受動的に「学ぶ」ことになる。当たり前だ。下に立つ者が決められるはずがない。褒める基準がコロコロ変わるような評価者は論外だ。問題は、下に立つ者が常に上に立つものの評価にさらされてコントロールされているということ。

そもそも教育とはそういうものだ。そもそも指導とはそういうものだ。

そういう考えの大人は多い。

でも、ちょっと立ち止まって考えて欲しい。

例えば、ある小学校の教室があったとする。児童達が常に担任の顔色ばかりうかがっているような教室。果たして健全だと言えるだろうか。封建的な教育を批判しているのではない。それは論外だから。そうではなくて、良いことは褒めろ。悪いことは叱れ。世間では「当たり前」とされているそんな教育観に疑問を呈しているのだ。そのような教育観をもとにした指導がうまく行って、児童達が担任の「期待通り」に行動したとしても、それで良いのだろうかということ。担任の立場から考えると、自分の思うように児童達が動き、場合によっては先回りして行動する児童達に囲まれたとして、それが教育者としての充実感につながるのだろうか、ということ。児童の立場から考えると、担任の期待通りに動けるようになった自分を自覚したとして、それで何かができるようになったという自信に繋がるのだろうか、ということ。

封建的な教育観は否定された。すると今度は、学校はサービス業だとばかりに父母達に対して下手に出てしまう。どうも、バランスの良い位置取りは難しいようだ。

「自ら考え自ら行動する」

言葉だけが踊る。では、自ら考えるとはどういうことか。勝手にやっていいのか。そんなことはない、と言う。では、どう行動するのが良いのか。それを考えるのが「自ら考えること」なのだ、と。それでは分からないではないか。つまり、スローガンだけ。雰囲気だけ。言葉だけ。
そういえば、「創造的教育」などと言う言葉もあった。創造的とは何か。独創的ならよいのか。いやクリエイティブなことだ。そんなの、英語にすれば分かったような気がするだけだ。何が創造的かをクリエイティブに考えよ(?)。

自ら考え、行動することは苦しくつらい。全く評価されないかもしれない。それでもかまわないというどっしりとした自信。苦しくてつらいが自分で考えて行動したというシビレル体験に裏打ちされた自信。

このブログでは、そんなんことを考えて行きたい。

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プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

齊藤塾合格実績・・・前高、前女、高高、高女、高専、渋高、渋女、高経附、佐久長聖中、中央中等、樹徳中、埼玉大、新潟大、群馬大、静岡大、高等工科他

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