原書講読
電子辞書にしろ、スマホやPCによる検索にしろ、以前では考えられないほどのスピード感で私達の学習効率を高めてくれます。
ある意味、夢の道具です。
それなのに肝心の学習効果が上がっているとはいいがたい。
つまり、学習「効率」は格段に向上したのに学習「効果」は上がっていないかもしれない、ということ。
道具がストレスを省いてくれた、その分私達が「ラク」をしただけで終わっている。そんな感じでしょうか。
いつも、言っていることの繰り返しになりますが。
困難に対峙した時に初めて私達の思考は起動する。
ストレスのないのっぺりした学習では、あまり困難を感じないということなのでしょうね。困難を感じないから、思考は起動しない。だから、学習効果がそれほど上がらない。
「機械にできることは機械にやらせて、人間にしかできないことを人間がする」
よく言われることです。
しかし、そんな簡単な話でもないようですよ。
「人間にしかできないこと」だけに絞ってピンポイントで思考するなんてことができるのでしょうか。はなはだ疑問です。エッセンスの部分だけヒトがやる? どうなんでしょうね。
思考って、一見無駄に見えることや、雑多なことの積み重ねの上に成り立っているような気がするのですが。特に、発明や発見こそ、行き詰まった時に、そのようなものからヒントを得て突破口を開いてきたと思うのです。そんなエピソードばかりですよね。
大学生はよく、原書購読を課せられます。
英語で書かれた専門書を英語で読まされる。
構文を解析しながら、辞書とにらめっこしながら一歩一歩読み進める。
その書籍の翻訳が存在しても、原書で読まされることも多い。
勿論、翻訳では著者の伝えたいことが十分に日本語に再現されていない、という問題もある。
どうしても、日本語の単語と英語の単語には意味のブレが出てきてしまう。
原書をストレートに読めば、そのブレの多くは解消される。
しかし、
原書を読む目的はそれだけでしょうか。
私が思うに、
原書を読む醍醐味。
それは、
ゆっくり読むこと。
じっくり考えながら読み進めること。
ここにあると考えます。
原書だと「読みとばす」という行為ができない。
時間をかけて読み進めるしかない。
だから、考える。思考する。思索する。
読書の楽しみは読みながら自分の言葉で咀嚼し直すこと。
自分の脳ミソで著者の思考をなぞり、自分の言葉で構築しなおし、自分自身の理解として腹に落とすこと。
原書は速読できない。
少し読んでは考え、考えては読む。
だから、思考は深まる。
量は読めないが、明日からの行動に少しの変化をもたらす。