学びたいのにそれが許されない。
まあ昔の日本では普通のことでしたね。
発展途上国では今でも普通。
親が「大学には行って欲しい」などと言ってくれる環境こそ、むしろ稀有。
勿論、
ここで今の子供達に説教するつもりはありません。
説教は、するのもされるのも大嫌いですから。
ただ、忘れないで欲しいこと。
「勉強って、いつでも、どこでも、誰でもできるものではない」ということ。
勉強したいのにそれが許されない。
そんな環境を経験したことがあれば、真剣さが違ってくるはずです。
体が覚えているから。
間違っても「若い頃、もっと勉強しておけば良かった」などと後悔する大人にはならないはず。
ブラタモリで浅間山と草津を取り上げています。
天明3年の大噴火で鎌原を襲ったのは、噴火に伴う土石流だったのですね。
火砕流だと思っていました。
嬬恋の「おもちゃ大国」内にある巨石群成立もまだナゾのようですね。
いくつか仮説があるようですが。
指導法の確認です。
齊藤塾のノウハウを公開、というほどではありませんが。
プリントはK社、T社、M社、I社、X社、TM社、F社のものを常にスタンバイしています。
(よく、これだけのものを集めたものです。もはやマニアの世界ですね。プリントマニアと呼んでください。)
これを一人一人の生徒の進み具合、性格、学校の進度、得意不得意に合わせて選びます。
その日に一番すべき学習を選んで、プリントを解かせ、細切れにストップをかけ、私が〇つけをします。
そこで弱点が見つかったら、類題反復で固めて行きます。
プリントのストックが大量にないと瞬時に類題を解かせることができないので、データーベース教材が何種類も必要なのです。また私が、その時点で必要なプリントに素早く到達せねば時間をロスします。これらを十分に使いこなしてきた経験が必要です。
アルバイト学生を使わないのはそれが大きな理由です。
私の分身は簡単には養成できない。
各社のプリントを使ってみて、その長所短所を熟知していなければ、使いこなすことはできないのです。
それぞれに得意不得意がありますよね。重きの置き方が異なる。
どの教材についても、安価なものを一つもありません。それでも使えないものは使えないのです。
(このブログは教材屋さんもお読みのようなので、この点は強調しておきます。教材屋さんには大変感謝しています。彼らの良い仕事は齊藤塾のシステムの大前提です。だからこそ、思いは複雑なんですよ。使い込んでいるからこそ複雑。)
私のシステムを広めようとは思っていません。多くの人に提供しようとも思いません。
限られた人だけに提供したいと思っているし、またそうすべきです。
上記のシステムをうまく回すための絶対条件があります。
それは塾生数を増やさないこと。
だから、私の指導を提供できる生徒は非常に限られます。
本日、ひとりの入塾が決定。
定員になり次第締め切ります。
名著と評判の参考書を求めて、地元の書店へと出かけた。
入試傾向を踏まえ、テクニックを網羅し、且つコンパクトにまとめてある受験生にとってバイブルのような参考書。
毎年のように改訂が繰り返され、常に内容が更新されているというクオリティの高い参考書。
しかし、名著は売り切れていた。
既に秋になっていたのだ。
当時、注文しても最低でも2週間は待たねばならず、それだけ待っても確実に入手できるとは限らなかった。
元より参考書情報に詳しくなかった彼は入手を簡単に諦めた。
代わりに、大量に売れ残っているどこにでもある参考書を購入して帰った。
誰でも知っている大手出版社発行の「標準的過ぎる」参考書。
参考書などに迷っている時間はなかったのだ。
その日から、彼は、
「標準的過ぎる」参考書を盲目的に1問1問と解いていった。
受験情報に詳しくないので、信じるしかなかったのだ。
目の前にある参考書にすがりつくしか。
1周、2周、3周・・・。
他の参考書には目もくれず。
そのかわり、その参考書については暗唱できるくらいに「すがった」。
結果。
入試ではなんと95%の得点率となった。
勿論合格。
理想的な入試対策を実践したのだから当然の結果とも言えるが。
あの時、お目当ての名著が入手できていたらどうなっていたろう。
人の脳は眠っている間に情報の整理をしている。
その「整理」が甘いとせっかく取り込んだ情報が脳内に乱雑に放り込まれたままの状態になるようです。
まあ、それでは「使えない」。
情報は絶えず「更新」すべき。
学習に関して言えば「再編」の繰り返しなんですね。
そのための睡眠。
まあ、考えようで、寝るだけで整理されるのですから、ラクと言えばラク。
まずは、就寝時刻と起床時刻を決め「何があっても」守る。
それがスタートです。
数日で体内時計が確立し、昼間の脳がフル回転し出します。
経験者は語る。
追い詰められ過ぎて私が採った手法でもあります。
私達の知識やスキルを生徒の頭に流し込めれば、ある意味楽なのかもしれません。
しかし、実際はそんなことはできません。
コントロールしようとすればするほどうまく行かないのはいつものこと。
生徒はコントロールされるのが分かれば反発します。普通のことです。
「注入」ではなくて「共振」へと発想の転換をして欲しいのです。
指導者が何かを鳴らすと、生徒の中にある何かが共振して鳴り出す。
共鳴というか。
そんな感じです。
共振の場合、あくまで「自分で」鳴っているというイメージですね。
共振しているうちに、次第に指導者なしでも自分から鳴れるようになる。
そんなイメージ。
注入という発想とは大きく異なると思うのですが。
二者が接していない点が共振のポイントでしょうか。
大人は子供に対して、何かを注入したがったり、何かをあてがったりしたがるようです。
付け足してゆくというか。
学ぶのはあくまで子供の方です。
だから、子供自身が動かないと学びは起きません。
秋季高校野球関東地区大会の準決勝。
健大高崎高が東海大相模高を下しました。
昔ならば群馬県内に衝撃が走ったでしょう。
でも、今は、
あまり、大きなニュースにはならない。
今や、健大高崎も甲子園常連校。
勝っても大きなニュースにはならない。
これです!
本当の強さは。
実際は群馬県大会から一試合一試合必死の戦いの積み重ねのはずです。
でも、ちゃんとここまで残っている。
外からは見えないところで、努力を積み重ねて、しっかりと結果を残す。
県内に身近なライバル校があり、気が抜けないというのも強さを支えています。
本当の強さは外から見ると至って「自然体」。
そして「最後には勝つ」。
一方、
近年、箱根駅伝常連校となっていた上武大学。
今年は予選を通過できなかったようですね。
「常連」の積み重ねは、やはり簡単ではない。
そもそも、ヒトが言葉を使えること自体、謎だらけなのです。
『言語と言う名の奇跡』という書名の本があるくらい謎。
謎の解明を待つよりは、まずは上手に使えるようになること。
それには、書物を読み、考えること。
そして発信すること。
発信することで、思考は更に深まります。
発信するときには自分の言葉での組み直しが行われます。
この時に、読みを再体験し、一段深く思考するのです。
勉強も人に教えることで、理解が深まる。
これと同じですね。
国語学習の演習と違って、比較的自由なスタンスで、自由に緩急をつけて読む読書は最高の楽しみになります。
至福の時間ですが、この下地は小学校高学年から高2辺りまでの読書量で決まると思います。
優先順位を見誤りたくないものですね。
一応、倍率だけ確認しておきますね。
前高 1.26倍
前女 1.37倍
高高 1.50倍
高女 1.31倍
高北 1.67倍
渋高 0.89倍
渋女 1.13倍
高経大附(普)1.93倍
特筆すべき点は特にありませんね。
例年通りでしょうか。
先生方の多くが強制に近い形で部活の顧問を振り分けられ、プライベートは勿論、教材研究の時間も持てない。
どうもこれは事実のようです。教師の本来の仕事を後回しにしてまで部活の指導にエネルギーを割かねばならない。それで先生方が疲弊して行く。
いったいこの状況は誰のためになっているのだろうか。やはりこれはおかしいのではないか。
これを声に出して言える時代になってきたようですね。
部活の抱える問題に真正面から取り組みたい、と考える人が現れたのは歓迎したいと思います。
若い先生なのに顧問を持たないということはあり得ないという空気。
たぶん、そうなんでしょうね。
「顧問を持つのは強制ですか?」
と聞けば、
「強制じゃあないけど、昔から皆やっているし、今まで逃げた人はいない。誰かがやらねばならないのだし」
との返事が返ってくる。
そして、次には、
「部活っていいよ。生徒も顧問も成長できるんだ!オレもそうだった・・・」
みたいな、感動話にすり替わってくる。
ピーマンが嫌いな子がいたとする。
全く食べようとしない。嫌だ嫌だを繰り返すばかり。
これを容認してはダメ。
じゃあどうするか。
ひとかけらだけ食べさせる。
ほんのひとかけらでよい。
味なんか分からなくくらいのひとかけらでもよい。
それさえも食べないと言い張ったらどうするか。
一切食事を与えなければ良い。
泣いてもわめいても毅然とした態度をとる。
それが正しい大人だ。
ひとかけらも食べないというのは、単なるワガママでしかない。
好みの問題を超えているのだ。
ワガママを許してはいけない。
何故か。
それがワガママだからだ。
でも実際は、ひとかけらでも食べようとしない、という子はあまりいない。
体に良いとかなんとか言って、大人が食べて見せれば顔を歪めながらでも食べるものだ。
特定の野菜には、その野菜にしか含まれない栄養素がある。
だから、食べねばならない。
しかし、大量に食べる必要はないのだ。
特定のミネラルは少量で十分だったりする。
ゼロではダメだ。
ゼロかゼロではないか。
それは大問題なのだ。
英語に any という単語がある。
これは、数学でいう原点0の付近、つまりゼロかゼロではないかのせめぎ合いのことを言うが、なかなか日本語では説明しにくい。だから、否定文と疑問文ではsomeはanyに変化する、などという変な説明で間に合わせる人が多い。この単語の本質からはかなりずれていると思うが。
嫌いなものでもゼロにはしない。
というわけで、今日はいつものピーマンの話にしました。
今日も塾生は戦いました。
来週も3連休の戦い。