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社会に受け入れてもらうということ


個性はアピールするものではない。にじみ出るものだ。

個性重視の教育、一芸入試の導入、アピールポイントの自覚、プレゼン能力を磨け・・まあいろいろあったけれど。
今多くの生徒達の関心の流れはどちらに向いているのかは明らかだ。
低学年のうちから、英検、漢検、数検、そのあとTOEICや資格試験などへと関心が移って行くのが実情だ。

あれ?個性の時代じゃあないの?

個性で飯は食えない。勿論、芸術家のような人達はいる。でも、芸術で飯を食ってゆくのは楽ではないことは誰でも知っている。だから、私にはこんな個性がありますといくらアピールしても、大概は「それが何だ」ということになる。当たり前だ。
個性をアピールする前に、そもそも君は何ができるのかねと聞かれることを皆知っている。

齊藤塾で働かせて欲しいという人から電話をもらったことがある。募集などしていないのに。むげに断るのもどうかと思って、仮に働いてもらうとするとこんな業務になりますができますかと聞くと、それはできないが私はこんなことなら得意だと言い出し、そして語り始めた。それは齊藤塾の業務の範疇ではないので、それではこんなことならやってもらえますかと別の話を向けると、それもできないがこっちの分野なら得意だと来る。話にならかった。
勿論、こんなことを言っている人はどんな職場も務まらない。

仕事とは「すでに出来上がっている社会システム」の小さな歯車の一つとなって、責任を果たすことを言う。そのためには期待されていることがこなせなければならない。期待されていることはできないが、これなら得意だなどと繰り返す人が社会システムの担い手として責任ある仕事ができるとは到底思えない。そう、仕事には責任が伴うのだ。個性と責任という二つの言葉、この二つの距離は遠いように見える。

「私はこんな人です」などといくらアピールしても、あくまでそれは参考程度だ。大切なのは君にはどんな仕事ができるかだ。そのことの大半は「君にしかできないこと」ではなく「他の人でもできること」なんだ。他の人でもできることのクオリティーを上げて、他の誰かではなく君自身がその仕事を勝ち取るしか君が生きる道はない。

誰にでもできることのクオリティーを上げること。仕事の速さと正確さを上げること。これって受験勉強と同じではないか。受験勉強で期待されることと仕事で期待されることとはかなりの部分でダブるのだ。受験勉強なんて将来役に立たないという人がいるが、それは間違いだ。

「仕事がないなら、君自身が仕事を作り出せば良いではないか」などと言う人もいる。IT関係を中心に、過去にはなかった仕事を作り出して活躍している人達は沢山いる。ベンチャーの時代だと言われている。NPOに飛び込む人も多いと聞く。彼等の豊かな発想力で新しい仕事を生み出すその勢いには敬服する。数少ない成功者だからこそその勇気とエネルギーを称えたい。

だが、大半の人は今現在ある仕事、今現在ある会社を選択することになる。その時に君に期待されているのは君の個性ではない。一定以上の仕事のクオリティーだ。正確さや速さだ。

頭ひとつ出るには

自分は何も知らない。
そのことを素直に受け入れてスタートできる人。

スタート時点でしっかりと地に足がついている。
そんな感じ。
自分は何が分かっていて、何を知らないのか。
その仕分けがきちんとできている。

だから、

知らないこと、分からないことを分かろうとする姿勢。
その構えが素直にできる。

学べない人はここが甘い。
知っているような知らないような。

質問されても答えが曖昧。自問しても思考が曖昧。
ことごとく曖昧。
まあ、分かっちゃいない。
だから適当にやっちゃう。
「エイヤアッ!」って。

学習者の姿勢からは程遠い。

こういう人って意外と多いのですね。

無知の知から出発できる人はだから強い。
それだけで頭一つ出てしまう。

ノート整理のこと

ノート整理はやってはダメです。
遠回りの作業で、エネルギーを無駄に使うし、自己満足に陥るし。
何も良いことがありません。
ただ、この場合の「ノート整理」とは、参考書丸写しのような作業的なノート整理を指します。
作業に意味はない、と言っているのです。

「自分なり」に思考を整理するためのノート。
混乱しているものをまとめるためのノート。

これらはもちろんOKです。
ただし、これらのノートは自然発生的に作られるものであって、「さあ作るぞ」といって始めるものではありませんよね。
あくまでもメモ的なものです。これは自分だけの宝物になり得ますね。
しっかりと「完成」させて「最初から覚える」ような性質のものではありません。
その点、ご注意を。
念のため。

学びはあくまでも主体的なものです。
自分から動くこと。

体で分かる

何かができるようになって自信がつくまでには、少し時間がかかります。どのようなプロセスでできるようになり、楽しさの体感に至るかについては「自ら体験しなければ分からない」性質のものです。いくら、他人に「説明」されても、体では分かりません。塾とは、その「体でわかる」ということを経験するために存在していると考えます。そう、齊藤塾に集う生徒達はその体験をするために集まって来ているのです。

自宅にいては得られない体験。ひとりでは決してできない体験。

勉強とは「苦しい」と「つまらない」の中間あたりの体験を続けるものです。ひとりで実行するのはなかなか難しい。だから、自立型学習塾は必要とされているのです。指導者の導きに従って、決してひとりでは手に入れられないものを得るために集う場です。

日本語を読む


子供達は「今」に興味があります。

「過去」の話とはワクワク感レベルが違うから。

教科書や参考書の教材はどんなに優れていてもそれは「過去」の情報。

現在進行形でアクティブに動いている物事には「生命」が宿っています。

子供達はそのことに敏感です。

現在のアクティブな物事から受ける刺激は、過去のそれとは比べ物にならないのでしょう。

大人達はもうそのことを忘れてしまっている。

文字情報では新聞。

私達日本人は日本語の新聞をまずしっかりと読めること。

アクティブな話題の宝庫ですから。

分からない部分が多くてもよい。

まずは、習慣として。

振る舞いとして。



さて、塾生達の通知表。
オール5(またはオールA)は14名だったようです。
新記録とはなりませんでしたが、皆頑張りました。

順次3学期が始まっています。

世界の中心塾

小さな塾だからできること。

それは、フットワーク軽く指導すること。
会議もなければ「ほうれんそう」もない。

良いと思ったことは塾長一人の決断で実行できる。
勿論、結果の責任は塾長が全面的に負う。

私にはそういうのが合っている。
妥協が嫌いな私には、この方法しか選択肢がない。

世界最小規模の指導形態。
パソコンが規模の小ささを補ってくれる。
そして一人塾の形態をメリットに変えてくれる。

塾の経営者には拡大志向の人も少なくない。

自分の指導を多くの人に伝えたい。
人を雇い、教室を増やす。
そうやって社会貢献したい人も多いと感じている。

私はそういうものに全く興味がない。

やがて中央に出て活躍したいと考えている塾長も少なくない。

私の場合は。

ここ、東吾妻町矢倉が「世界の中心」だと思っているから「出る」必要がない。

日本の中心は東京だなんて誰が決めた。
世界の中心はアメリカだなんて誰が決めた。

好き嫌いは損なこと

嫌いなものでも食べる。
少しだけでも良いから食べる。
その食物にしか含まれていない栄養素があるのだ。
それぞれの食物には個性がある。
他の食物には真似できない個性が。

嫌いな人とでも話をする。
少しだけでも良いから話す。
その人にしか語れない話があるのだ。
一人一人には個性がある。
他の人には真似できない個性が。

だから、

「好き嫌い」はとっても損なこと。

ちょっとの我慢、ちょっとの勇気で世界は広がる。

そして、

その経験の厚みは、大人になって効いてくる。

自由、不自由


ご褒美をもらうことで、人は少し「不自由」になる。

いつの間にか、それに縛られている。ご褒美は貰えるものなら、もらいたいと普通は思う。他の人が貰っているのに、自分だけ貰えないのは悔しい。また、普通、他の人のご褒美よりも良いご褒美を貰おうと頑張ろうとする。

子供達は、何をするにも、それを始める時から大人からのご褒美が視野に入っている。かすかな期待が、いつの間にか当然の「権利」に変身していなければ良いのだが。

それで頑張ってくれるのなら、と多くの大人は思っている。

ご褒美に縛られることに違和感を持たない人はいつの間にか「不自由」になっていることに気づかない。
縛られていて不自由だということは、自立していないということ。

自立できない人は自分で自分の人生を歩めないということ。

「そんなに面倒に考えるなよう」という声が聞こえて来そうだ。

思考の起動

哲学者の谷川徹三さんによると、「考える」ということの原初的形態は「我々が生活の中で何らかの障害に出合って、我々の意志が阻まれる場合、それに反応する一つの仕方」なのだと。

障害に出合わなければ考える必要もない、ということですね。

人は、考えなければ前に進めないような状況に追い込まれて初めて考えるということをする。何も考えずに日々過ごせる人が哲学的思考をすることなどあり得ないということなのかもしれません。

まあ、そうかもしれませんね。それほど人は怠惰なのでしょう。必要のないことはなるべくやらない。何らかの困った状況に追い詰められて、初めて頭を使い始める。何とか頭を使って乗り切ろうとする。考えなければ前に進めなくなって、やっと考えだす。

そう考えると、先人達が膨大な思考の遺産を残してくれているということは、それだけ先人達が様々な障害に出合って、その時々に思考せざるをえなかった。そんなな状況に追い込まれて、苦しみながら思考してきたということに違いありません。

受験も一つの障害ともいえます。

どうしても乗り越えなければならない。受験では様々なことを考える必要に迫られます。
深く考えるチャンスをもらったとも言えますね。



・・・といういつもの話。

自分には厳しくなれない

大学生達の書籍離れは深刻です。
有名大学の学生でも、自ら書物を買って読むという習慣はあまりないようです。

本当に深刻です。

憧れの的のような大学ですら本を読まなくなっている。

頭は良い。
偏差値は高い。

でも、

読まない・・・・。

読まないということは考えないということ。

スマホで情報を得るという話とは別です。


さて、





自分に厳しくするということは、簡単ではありません。
私達は弱いのですね。
つらいことからは逃げたい。ならば、避けて通りたい。
まあ、誰でもそうなんですね。

でも、自分を甘やかしているだけでは受験には勝てない。

だから、

賢い生徒は、自分を甘やさせない時間と場所を見つけて自分自身を放り込むのです。
私自身の経験からも、この方法が最も結果に結びつきます。
ダラダラと自宅にいては、無意味に時間ばかりが過ぎてゆきます。

自分を甘やかさない。
そのための時間と場所を作る。
妥協が許されない時間と場所。

そこでは確実に勉強が前に進む。
自分でも自覚できる成果。
勉強がはかどることで自信になります。
心も落ち着いてきます。

齊藤塾とはそういうところです。
プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

【遠方の方も吾妻線を利用して、土日、祝日中心に通っている塾です。長時間の個別演習形式で鍛えて結果を出しています。お気軽にお問い合わせください。】

合格実績(2012年~2020年までの合計)前橋高校4名、前橋女子高校8名、高崎高校5名、高崎女子高校7名、群馬高専5名、渋川高校20名、渋川女子高校17名、高経附高校3名、前橋育英S4名(中学受験については初年度からの合計で中央中等8名、佐久長聖中8名それぞれ合格、大学受験については、群馬大、埼玉大、茨城大、信州大、新潟大、静岡大、早稲田大、慶応大、津田塾大、東京女子大、明治大、法政大、成城大、東洋大、獨協大等多数合格・詳細は下のホームページからどうぞ)

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