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8月15日です。

戦争中の話。

『窓際のトットちゃん』の黒柳徹子さんは、現在の東吾妻町大字岩下に疎開していました。
「徹子の部屋」の黒柳徹子さん、と言った方が分かりやすいでしょうか。

「ともえ学園」の生徒だったんですね。

齊藤塾から長野原方面に車で走って、旧岩島中学の前(セーブオンの所)を過ぎて最初の橋のあたり(カーブのところ)に「ともえ学園」はありました。当時としては珍しく、ピアノがあったとか。地元の子供達は大いに珍しがったとか。
ただ、食料の確保には苦労していて、近隣の農家を回っては、まだ青いトマトなどを譲ってもらっていたとか。

とにかく食べるものがなかった。

当時の岩島は、疎開の子供達だけでなく、朝鮮半島から家族で移ってきた人達の子供も多かった。
岩島の学校は子供達で膨れ上がった。

吾妻線は誰が作ったか。

戦争末期、六合村で採掘した銅を運搬すべく、鉄道の敷設が急がれました。
若い男の多くは戦地に赴いている。

突貫工事の鉄道敷設にかり出されたのは、学生や朝鮮半島の人達などなど。

原町と中之条の間に架かる鉄橋。
これは大変な難工事だったとか。

犠牲者も多く出たとのこと。


矢倉と郷原の間にある長い方のトンネル。
このトンネルの掘削も難工事だった。

矢倉側に出した土砂は今齊藤塾の看板の立っているあたりに出した。
郷原側の土砂は、トロッコを使って吾妻川に落としたのだそうだ。
場所は今ガソリンスタンドのある数十メートル矢倉よりあたりだろうか。
車の待避所があるあたりか。

勢い余ってトロッコごと川へ転落して亡くなった人もいたとか。

結局、吾妻線(当時は長野原線)の完成を待たずに戦争は終わった。




私達は知らないことが多すぎる。

吾妻線を利用するときには、その敷設に苦労された人々を思っても良いのではないか。

8月15日。

立ち止まって71年前を思う。

当時を語れる人が年々少なくなってきた。



プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

齊藤塾合格実績・・・前高、前女、高高、高女、高専、渋高、渋女、高経附、佐久長聖中、中央中等、樹徳中、埼玉大、新潟大、群馬大、静岡大、高等工科他

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