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意識から無意識へ

学習内容の多くは、先人達が築き上げた学問体系の一部分を学習者に理解しやすいように整理し、段階的にまとめたものである。言うまでもなく、人類が発見したり、築きあげた順番に教科書に並んでいるわけではない。しかし、教科書の編集にあたっては著者たちが話し合い、学習者が段階的に理解しやすいように順を追って説明されている。

まあ、当たり前のことだが。

一般的に、教科書内容のほとんどは学習者にとっては新しい世界だ。一見、もともと知っている内容に見えたとしても全部が既知だというようなことはあり得ない。

人は、自分にとって未知の世界を軽く見るきらいがある。

だから、学習者は常に謙虚でなくてはいけない。

何を言いたいのか。

つまり、学習者は「意識的に」謙虚であらねばならない、ということ。学習者は新しい学習項目については「ど素人」である。だから、無数ともいえる先人達の知恵の詰まった学習内容を前にして、ゆめゆめ「甘く見る」ようなことがあってはならない。生まれた時からそんなことは知っている、というような態度をとってはいけない、ということだ。教科書を書いた人達は少なくとも現時点では、学習者よりも遥かに高み立っているのだから。謙虚に謙虚に。

まずは、そのことを意識的に行うこと。

謙虚に素直に。

そして、ひとつひとつの学習内容についても「意識的して」吸収してゆくこと。今まで知らなかったことに対峙していることを忘れずに。今までできなかったことを「これから、段階を追って」身につけようとしているということを忘れずに。

意識的に謙虚に。

無意識的に手が動くようになるのは、ずっと後のことだ。
新しい世界が自分の血肉のようになり、以前の自分との区別がなくなるまでには、気の遠くなるほど十分なる反復学習が必要なのだ。学習内容が自分の無意識の域にまで達したときには、自分自身が数段高みに登っていることに気づくはずだ。

伏兵の台頭

比較的最近入塾したある塾生。

躍進が目覚ましい。

劇的に伸びている。

入塾後、期末テストと実力テストの校内順位が確実に上がっている。
いずれも、過去最高順位。

実戦問題復習プリントの解きっぷりが良い。
塾のプリントを徹底的に復習しているのだろう。

二度目以降、ほとんど間違えない。

自宅で何度も復習している塾生は、プリントを解かせてみるとひと目で分かる。
私が気持ちよくリズミカルに丸つけ出来るから。

後から入ってきた塾生が、以前からの塾生を猛追する。
前から居る塾生も、呑気に構えていては抜かれてしまう。
学年1位の塾生だって、その座が危ういかもしれない。

強い組織とはこういうものだ。

オリンピックでも、国内選考が厳しい競技がある。
ライバルが多すぎて、まずオリンピック選手に選ばれることが自体が難しい。
そんな競技は、本来の選手がアクシデントに見舞われ、代りに補欠選手が出場して金メダルを取ることがある。

野球でも、強いチームほど、怪我などでレギュラー選手が休んでいる隙に、控えだった選手がその座を奪ったりする。
控え選手が連日大活躍して、怪我の治ったレギュラー選手が戻れないという事態になる。

私は競争を煽るようなことは決してやらない。
塾生達の自立を阻害する恐れがあるからだ。
しかし、塾生達がお互いに刺激し合うのは良いことだと思っている。当然だ。
周りの塾生達が真剣に取り組む様子を見れば、自ずと気持ちも引き締まるというものだ。
疲れたとか眠いとか言ってられない。

その「伏兵」も、齊藤塾への入塾がきっかけとなり、学習に対する取り組み方が大きく変わったようだ。
覚悟を決めるまでには、様々な葛藤があったに違いない。

確実に力がついている、という手ごたえが学習へのエネルギーとなっている。良い循環に入ったようだ。
こういう塾生は「手ごわい」。既塾生達もおちおちしていられない。

競争を煽らないのに、塾生達がお互いに良い刺激を与え合っている。

齊藤塾のような、お互いの顔の見える塾だから可能なことだ。
小さな個人塾でしか得られない貴重な体験と言える。

反復を躊躇しない

反復学習することに躊躇は要らない。

全面的に良いことなのだから。

禅宗の僧侶達は毎日座ることに躊躇などあるはずもない。
それが日常であり、もうこれで完成というものもない。
座ることが修業であり、座ることが日常であり、あまりにも当たり前のことだから。
気合いを入れて座ることもなければ、気が進まないということもない。

学習者が反復することは、新しく学習したことを自分にとっての日常に近づけること。
習慣となったものは自分自身そのものとなり、剥がれ落ちることはあり得ない。
体から離れることができなくなる。
無理やり取ろうとすると、血が出る。
自分自身の体そのものだから。

だから、反復学習に躊躇してはいけない。

無理やり剥がそうとすると血が出るほどに、それが「自分自身」の体になるまで反復すること。
「身についた」のではなくて、「身」そのものになるまで繰り返すこと。

問題が解けたという喜びすら薄くなるまでに。

普通だから。

日常だから。

自分の「身」そのものだから。

2016 前橋高校合格体験記

本日も一人、体験授業のご予約を頂きました。
有難うございます。
各学年とも定員になり次第締切ます。

さて、新年度が始まりましたね。

今年の合格実績に自信を深めた私は、新年度はさらにその指導法に磨きをかけます。
キーワードはやはり「自立」です。
齊藤塾は覚悟ができた人だけが集い、自分と戦う場です。



今日は前橋高校の合格体験記です。

【2016年 前橋高校合格 M君の合格体験記 ・・・ 豊富な問題量で苦手を発見。そして克服!】

「齊藤塾で勉強した期間は、私にとってとても大切なものだったと感じます。
齊藤塾に通う前は、さまざまなテストで400点を超えることがなかなかできずにおり、進路にとても悩んでいました。しかし、齊藤塾の豊富な問題量と反復学習のおかげで、だんだんと400点以上を安定してとれるようになっていきました。また、通って初めての頃は、自分の生活が大きく変わり、慣れるまでは大変だなと感じることもありましたが、慣れればそこまで大変だと感じることもなくなりました。
齊藤塾に通う前は、自分で勉強することがあまり得意ではありませんでした。しかし、塾での豊富な問題量のおかげで、問題を解いている時に「ああ自分はココができないんだ」と苦手なところを見つけることができました。家ではその見つけた苦手なところに積極的にとりくむようにしました。そうすると、ただやみくもに勉強するよりも、広い範囲を勉強でき、自分の苦手なところを減らすことができました。
自分はこのような勉強の仕方をしましたが、大切なのは自分にあったやり方を見つけることだと思います」


齊藤塾からの合格者達が異口同音に言っていること。

学習量が多く、時間も長くて慣れるまで大変だった。でも、慣れれば大したことなくなった。
成績がとても伸びた。
苦手なところを見つけられて、家での学習方法が変わった。

人が「変わる」ということはこういうことなんです。
「一瞬で変われる」なんて嘘です!
毎日毎日、気の遠くなる程の期間継続する。
それが本当の努力というものです。努力とは「今日もその小さなことを継続すること」です。

そして、

いつの間にか昔の自分とは違う自分になっていることに気づく。
長期間かけてゆっくりと変わった自分は、もう後戻りはしません。
だって、変わった後の自分が本当の自分なのですから。

私は強制するのもされるのも嫌いです。

長時間学習と個々の演習問題は私が指示しますが、あまり細かいところまでは強制しません。
学習方法を細かく指示されると、各自にふさわしい学習方法を育てることができなくなります。
強制は自立とは逆です。自立していないと、最後に勝てない。
しかし、放任でもありません。一人一人が独自の学習方法を育て、結果に結びつくように各自の学習を見守ります。言われたことだけこなす人は成長できません。多少ぎこちなくても良いから、自分の足で立ってみることです。それが、生きている実感でもあるのです。

自由には自立が求められます。自分の足で立てるまでには、苦しみが伴います。自由の喜びを勝ち取るまでには、長い長い苦しみを乗り越えねばなりません。

偏差値は上がるか

私の塾長仲間でも、短期間に塾生の偏差値を上げたと豪語する人が少なくありません。偏差値を上げるにはテクニックがある、と。

では、齊藤塾ではどうか。

ある年の中3生の偏差値上昇について、個人名が特定されないよう注意しながら報告致します。県内で比較的受験者の多い業者テストの偏差値を上位5名まで示してみます。

ある年の5月
  1位 偏差値 64
  2位 偏差値 64
  3位 偏差値 61
  4位 偏差値 61
  5位 偏差値 59

同じ年の12月
  1位 偏差値 69
  2位 偏差値 66
  3位 偏差値 66
  4位 偏差値 65
  5位 偏差値 64

勿論、上位層の順位やメンバーに多少の変動はあります。
まあ、何とか苦しみながらも上がっていると評価して頂けるのではないでしょうか。
あれほど長時間の学習を積み重ねてこの程度か、というご批判があるとすれば、甘んじて受けます。
「うちならもっと短期間に、これ以上の上昇が可能だよ」という塾長達の声も聞こえてきそうですが。

業者テストも後半になると試験範囲も広くなり、難易度も確実に上がります。
私は塾生達は健闘していると思うのですが。この年は、5月段階では合格を見通せる塾生がいなくて、とても心配しました。各塾生ともに苦手教科がありましたし。

では、この学年の高校入試結果はどうだったかと言うと。
これも、個人名が特定されないように、曖昧な報告にとどめさせてもらいますが。

この年の高校入試結果。

前高、高高、前女、高女 のいずれかに ・・・ 合計 3名合格
渋高、渋女、高経附、高専のいずれかに ・・・ 合計 5名合格

1学年10名程度の塾としては、まずまずかと思います。
12月以降、塾生達は自分を追い込んで更に学習を進めたことは言うまでもありません。冬期講習中は「缶詰状態」と言っても過言ではありませんから。

私の実感から言えば。

偏差値は簡単には上がりません。

長期間に渡って自分と戦って、やっと少し上がる程度です。
どこかのスイッチを押せばポンと上がる、というような性格のものではないのです。

でも、

そうやって苦労して偏差値を上げれば、確実に上位校には合格します。
時間をかけて苦労することで「体質が変わる」のです。
本物の力が身につく。

これが、私の確信です。

高崎経済大附属高と高崎北高の進学実績比較

高崎経済大附属高と高崎北高の今年の大学進学実績を比較しておきましょう。

両校とも最近、入試高倍率が続いていますね。
人気校ですから、入試偏差値も上昇中です。

高倍率勝者達の3年後の大学合格実績です。
卒業生数は高崎経済附属高が278名、高崎北高が239名でした。
一人で複数校合格しているでしょうから、進学実績とは異なりますね。

北海道大学
  高経附属    2名

筑波大学
  高崎北高    2名

東京海洋大
  高経附属    1名

首都大学東京
  高経附属    1名
  高崎北高    1名

上智大学
  高崎北高    1名

東京理科大
  高崎北高    1名

明治大学
  高経附属    2名
  高崎北高    1名

青山学院大
  高経附属    3名

立教大学
  高経附属    3名
  高崎北高    3名

中央大学
  高経附属    4名
  高崎北高    8名

法政大学
  高経附属    8名
  高崎北高   17名

日本大学
  高経附属   21名
  高崎北高   22名

東洋大学
  高経附属   27名
  高崎北高   21名

駒沢大学
  高経附属    6名
  高崎北高   10名

専修大学
  高経附属   12名
  高崎北高   16名

津田塾大
  高経附属    1名


だいたいこんな感じです。
やはり、似てますね。
両校とも、来年は今年以上の実績が期待できるでしょう。


明後日から、齊藤塾も新学期です。

世界にひとつだけの学習法

齊藤塾塾生の中で、3学期の通知表がオール5(またはオールA)だった塾生は9名でした。

今回は新高1生の通知表を敢えてカウントしていないので、それを考慮に入れればまずまずの結果かと思います。
もう少しで完璧になったのに、という人も多数。
弱点が明確になった人には、今回の春期講習で弱点部分に多目に時間をとってトレーニングしています。
その春期講習もあとわずか。

さて、

世界にひとつだけの学習法。
それは、今日あなたがやったその学習法です。

確かに誰かの学習法を一部参考にしているかもしれません。
でも、「完璧に」他人の学習法を真似ることは不可能ですし、それって何だか違和感がありますよね。
だから結局、ひとは一人一人固有の学習法を身につけてゆく。

あたかも、二つとして同じ人生がないように。

ひとは皆違う。

だから、

自分が自分であること自体がいとおしいし、嬉しい。
ひとには自由度が沢山あって、その部分が自分らしい。

ところが、だ。

周りから見て、いかにも個性的で自由奔放に振る舞っているように見えるひとがいる。
そんなひとほど、実は基礎基本が抑えられているものだ。
スポーツ選手や武道家、芸術家などの修業時代を知ればすぐに分かること。

自分らしく自由に生きること。
他の誰とも違うように。
それが楽しい。
それが生きている喜び。

しかしその自由のためにこそ、基礎基本を徹底的に叩き込むことが大切なのだ。

自由自在の喜びを手に入れるための基礎の徹底。



努力とは継続のこと、継続とは今日もそれをすること。
そして、それが習慣化されれば全く苦痛ではなくなる。
いや、むしろそれをやらない一日があったら「気持ち悪い」と感じる。

自由に振る舞って生きることを楽しんでいながら、基礎基本は完璧に抑えられている。
いや、基礎基本の上でこそ自由奔放の快感が得られる。

努力を継続して徹底的に基礎を身につけた人は、それくらい「手ごわい」ものなのだ。

接続詞を認めない?

石黒圭さんの『文章は接続詞で決まる』(光文社新書)には、私にとっては目から鱗の話題が多い。

いくつか紹介しよう。

「そもそも接続詞という品詞を認めない立場もあります。」

え? 何それ?
文章も会話も接続詞なしでは成り立たないでしょうに。

ところが、そもそも品詞というものは一文の枠をはみ出して文と文を結ぶようなものは本来想定されていない、と。
副詞との境界線も曖昧だし、指示詞との境界線も曖昧だという。

また、

「ですから、私は、高校入試や大学入試、法科大学院の適性試験などで見られる、接続詞を選ばせる問題があまり好きではありません。」
「じつは、論理学は接続詞が苦手です。」

はあ? 文章は論理じゃあないの? 論理をしっかり追って行けば自ずから正解が導かれるのじゃあないの?
国語の専門家が何を言い出すのか。

石黒先生曰く、「接続詞の持っている論理は論理学のような客観的論理ではなく、二者関係の背後にある論理をどう読み解くかを示唆する解釈の論理なのです。」

なるほど。
読み手の解釈によっては設問での接続詞の選び方も変わってくる、ということか。
接続詞選択問題では、解答解説を読んでもいまひとつしっくり行かないことがある。これは、至極当然のことだったのか。正しく解釈すれば誰でも同じところに到達できるという客観的論理ではない。個人差の生じる、解釈の論理。

ここから私達は何を学ぶべきか。

国語試験問題の作成を始める時を考えてみよう。
まず作成者の目の前には完成した文章が存在する。
その完成品に手を加えて問題を作るわけだが、作成者の脇には常にもともとの完成品が「正解」として存在している。
その完成品に引きずられる形で問題作成が行われている恐れがある、ということだ。だって、手を加える前の作者の文章が「正解」に決まっているのだから。
言ってみれば、様々な解釈の広がり具合については、問題作成者自身が一番狭いということになる。一つの方向しか見えていないと言ってもよい。「正解」が脇にあるから。
ところが、解答する方は様々な解釈の広がりを想定して解くから、迷うことになる。
これに近いことは、以前から石原千秋という学者も言及している。

問題作成者を非難しているのではない。ただ、接続詞選択問題を作るのならば、正解以外は「絶対にありえない」ような選択肢にして欲しい。それでは試験にはならないか。
そういえば、麻布高校の国語の授業では、接続詞を選ぶ問題の解説などはあまりやらないようだ。あくまでも内容理解重視。参考にすべき情報だ。

国語に限らないことだが、定着した「正解」に引きずられて思考が固定化することだけは避けたいものだ。
学問の本来あるべき姿勢からは正反対の方向なのだから。


もうひとつの学ぶべきこと。

接続詞ひとつとってみても、大学の先生の話は面白いということ。知的刺激に満ちているということ。もっと言えば、自由であり、広がりがあり、それでいて厳密な議論をしているということ。
逆に言うと、高校までの「常識」はあくまで高校までのものであり、限られた時間で学ぶように「選択され」「整理され」ているものだということ。高校までに学ぶことは基礎であり基本であることには違いない。しかし、それは過去でも、未来でも変わらないものなどではないかもしれないのだ。

実は、大学ではそういうことを教えてくれる場だ。

学問とは自由であり、広がりがあり、そして何よりも「常識を疑う」ことに躊躇がない。高校までの先生が「これは接続詞だ、しっかり覚えよ」と教えてくれた一つの品詞が、学問的にはその存在を認められないかもしれなかったり、まだまだ議論の余地があったりする。その事実や、学問研究の途中経過、つまり、最先端の一番ホットな場所を見せてくれる場が大学なのだ。

高校までは常識を教えてくれる。大学では常識を疑うことを教えてくれる。

受験というものがある以上、中学、高校の先生方が固定的に教えるのはある程度仕方ないことだ。塾講師の私にしても同じ。

しかし、だからと言って、多数の解釈が可能な問題について、解答に引っ張られて作者の「正解」を生徒に押し付けるようなことだけは避けたい。そんなことでは生徒達は迷いを深めるだけだから。そして、指導者もその成長を止めることにもなるのだから。

そういえば、形容動詞を認めない学者もいるということ。中学、高校の先生もそのような話題に触れることくらいはしても良いのではないか。このような議論を理解し、ついて行ける生徒は沢山いるのだから。そして、そこから日本語の面白さに魅かれる人も出て来るだろうから。

質素なだけで、貧乏ではない。

南米ウルグアイの第40代大統領、ホセ・ムヒカ。

彼のリオ会議でのスピーチは先進国の国民に衝撃を与えた。

世界で最も貧しい大統領と呼ばれることに対して、

ムヒカ曰く

「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなくて、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。私は少しの物で満足して生きている。質素なだけで、貧しくはない」

また、曰く、

「人がものを買うときは、お金で買ってはいない。そのお金を貯めるために割いた人生の時間で買っているのです」
「質素は『自由のための戦い』です」


自分自身の生活を省みたときに、果たして私に何等かのコメントをする資格があるものなのか。
いや、
言い訳していながら、自らの生活そのものを変えないのは怠慢ではなくて、欺瞞だ。
だから、黙って生活を変えるべし。
ムヒカ大統領が一番訴えたかったのはその点なのだから。



だから、今日私がすべきこと。

ひとつは質素な生活をまず始めること。
(これは「個人の自由」の段階を遥かに過ぎてしまった。ひとりひとりが質素な生活を始めない限り、もう地球が持たない。)

もうひとつ。
それは、塾ブログらしく。
ムヒカ大統領が、このシンプルかつ衝撃的な言葉を紡ぎだすに至った彼の人生に思いを馳せること。

13年間もの獄中生活。
独房で7年間も書物も与えられない日々。
この極限体験から、
「孤独は、死の次に最も悪いこと」という言葉が生まれたのだろう。

独房の床で眠る日々が続いた後、与えられたマットの上で眠れる幸せ感。
書物を与えられなかった7年間の後に、与えられた物理や化学の書物を貪り読んだ時の幸福感。

多くの読書をこなし、そして行動する。
失敗しては、また立ち上がる。
読んでは考え、行動しては失敗し、また立ち上がる。
大きな苦しみを乗り越えると、これほどシンプルかつ重みのある言葉が紡げるものなのだ。

読むだけではダメ。
行動するだけでもダメ。
失敗して、立ち上がらないのもダメ。


「敗北者とは、闘いを辞めた人のこと」

「諦めたら負け。人生では何千回と転びます。でも、千と一回立ち上がり、一からやり直す力があなたにはあります」


ムヒカ大統領と同じ星に生まれた幸せを感じます。
ムヒカ大統領と同じ時代に生きている幸せ感をかみしめます。

しかし、これらの言葉は私自身に投げかけられている。
言葉を言葉のままで終わらせてはダメだ。
称賛し、「消費して終わり」にしたのでは、ムヒカ大統領の最も嫌悪する態度となってしまうだろう。
生活を変えること。少しずつで良いから。

でも、時間は残されているか。

闘いを辞めた時に敗北者になるのだった。






早稲田大学合格者数

今年の早稲田大学合格者数を高校別に見てみます。
この数字はほぼ確定と見てよいでしょうね。

高崎高校  53名
前橋高校  34名
中央中等  25名
太田高校  20名
前橋女子  16名
高崎女子  12名
樹徳高校   6名
四ツ葉学園  4名
太田女子   3名
渋川高校   3名
沼田高校   2名

 (1人で複数合格を果たした人も多いかと思います。桐生高校の数字は、いずれ判明すると思います。)

高高の強さが際立っています。

そして、中央中等。
学年定員120名の学校でこの数字です。
ちなみに東大は高高が13名、中央中等が7名でしたよね。
中央中等に関心が集まるのは当然でしょうね。

少人数で手厚い教育をしてくれる学校。
最近はそんな教育機関が求められています。

学校も塾も。

四ツ葉学園も良い実績を出し始めていますね。
やはり120名定員なのに、東北大学1名、筑波大学2名、横浜国大2名、東京外語大2名の合格者ですよ。

群馬の公立中高一貫校は、全国的に見ても「成功例」のようです。
プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

2019年合格実績
前橋高校1名、前橋女子高校1名、高崎高校2名、高崎女子高校2名、群馬高専2名、新潟大歯学部1名、中央中等1名(その他・過年度分は下のホームページからどうぞ)

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