自分に帰る

勉強。

好きで勉強している人には誰もかなわない。

好奇心の趣くまま、気の済むまで調べる。研究する。問題を解く。

それが「許される」環境が理想だと思う。

じゃあ、今の中高生はそれが「許されて」いないと言いたいのか。

それには答えない。勉強の目的は様々で良い。個人差があっても良い。

スケジュール満杯の学生生活も良いだろう。充実しているともいえる。

ただ、気の済むまで自分と向き合う時間もあって良い。

何事にも代えがたい時間。そう思う。

「本当の自分」に帰る時間。

前期試験対策

齊藤塾では、今日から中3塾生に前期試験対策資料の配布を始めました。

受験校の過去問と先輩の受験体験記をまとめた資料です。去年から各高校のHPで過去問が入手できるようになりました。著作権の関係で文章自体が削除されているものも多いですね。齊藤塾の高校受験生は、毎年ほぼ同じ高校を受験します。幸い去年の先輩が残してくれた資料があります。従って、大半の塾生が完璧な過去問に接することができます。
問題の形式は今年もさほど変わらないでしょう。参考になるはずです。
それと、受験体験記(アンケート)をまとめたものは、生々しい形で毎年後輩達に受け継がれています。先輩塾生のおかげですね。先輩の言葉で書かれているところが貴重です。後輩への思いやりが伝わってきます。

例えば、前高と渋女受験生からは「寒かった。防寒対策を十分に」などという有難いアドバイスも。時期が時期ですので、カイロなどは用意しておいた方が無難ですよね。

過去問は比較的手に入りやすいでしょうが、先輩のアドバイスは生の声です。塾にとっての財産ですね。先輩のアドバイスが役に立った塾生が後輩塾生のために丁寧なアドバイスを残してくれています。

一部をこのブログでも小出しに紹介できたらと思います。個人名などが分からないような形での紹介については了解を得ていますので。それでも最大公約数的な内容となりますが。

今日は雪でしたが、遠方からの塾生も多く通塾してきました。雪の量は心配したほどではありませんでしたね。

私立高校特待のランクアップを狙っている人は是非頑張ってください。

ご褒美

ご褒美がはやっている。

はやっているという言葉は、以前はそれほどではなかったものが今では際立っているというということを意味している。

家庭でも学校でも、子供達はご褒美を貰い慣れしているような気さえする。
評価を形にして表すことが当たり前になってきているのだろうか。具体的には賞状や物、お金ということになる。

ご褒美をもらうことで、人は少し「不自由」になる。

いつの間にか、それに縛られている。ご褒美は貰えるものなら、もらいたいと普通は思う。他の人が貰っているのに、自分だけ貰えないのは悔しい。また、普通、他の人のご褒美よりも良いご褒美を貰おうと頑張ろうとする。

子供達は、何をするにも、それを始める時から大人からのご褒美が視野に入っている。かすかな期待が、いつの間にか当然の「権利」に変身していなければ良いのだが。

それで頑張ってくれるのなら、と多くの大人は思っている。

ご褒美に縛られることに違和感を持たない人はいつの間にか「不自由」になっていることに気づかない。
縛られていて不自由だということは、自立していないということ。

自立できない人は自分で自分の人生を歩めないということ。

「そんなに面倒に考えるなよう」という声が聞こえて来そうだ。

私は、

これは小さな問題ではないと考えている。
真正面から向き合うべき問題だと考えている。


私も自分との戦いが続きます。
明日は雪です。

努力の人たち

ある塾生。

ついに実力テストで学年一桁順位に突入しました。この塾生はコツコツ努力型。めげすに何度も何度も反復して、徐々に自分のものにしてゆくタイプ。実力テストで結果を出すのが齊藤塾のウリではありますが、素直に努力した塾生がこのように結果を出してくれると私も嬉しくなるし、自信にもつながります。勿論、一番自信をつけたのは塾生本人なのですが。

頭って、急には良くはなりません。

信じて続ける。

中学生にはなかなか実感がわかないかもしれません。でも、一度努力が結果に結びついた、という経験をすることで今後の取り組み方が変わってくるのです。見通しが立つのですね。

齊藤塾に入塾し、努力を続けたことで人生初の「オール5」を取った塾生が複数名います。2学期のオール5(またはオールA)12名の中にもいます。綺麗に5が並んだ通知表を手にしたときの気持ちよさは体験しておいても良いでしょう。勿論「守りに入る」ことは危険です。また「成績を揃えようと」して小さく固まってはいけませんが。

今日は「推薦合格内定」の報告も受けました。正式な発表まで詳細は伏せますが、はやり努力の人は結果を出すという法則通りになりました。志望校の絞り込みがやや遅めだったのですが、日ごろの努力が認められた形です。
入塾後に内申点がかなり上がっていたので、そのあたりが評価されたとすれば私としても「戦略通り」と言いたいですね。学校の勉強重視の指導方針に間違いはなかったと力説したいところです。

30日(金)は雪になりそうです。
土日にいつも遠方から通塾してくる塾生がいるので、あまり大雪にならないことを祈っています。

塾生5名募集

受験生は毎日自分自身と戦っています。

いよいよ受験も本番が近づいてきました。

とはいえ、齊藤塾も新年度の塾生募集のことも考えねばなりません。
なにせ、私はこの仕事だけで生きていますので。当たり前か。

開塾した当初は、昼間は何の仕事をしているのか、とよく聞かれましたね。昼間は授業の準備をしている、と答えるとけげんな顔をされました。塾が本業だということを信じてもらえない時代もあったのです。最近はそんなこともなくなりましたが。

最近はむしろ、忙しそうだとか、いつ休んでいるのかなどと心配してくださる方もいます。

評価はどうあれ、自分の好きな仕事で生きて行けることは幸せです。だから、お客さんには感謝しつつ、期待以上のものをお返ししようといつも思っています。

ここのところトップ校受験専門塾らしく、入塾基準を厳格にしています。

これほどの田舎塾で入塾基準もないもんだと言いたい人もいるでしょうね。
心配してくださる方もいらっしゃいます。
塾生が少なくなったらどうやって家族を養うのか、とか。何歳までやるつもりなのか、とか。自分で自分の心配ができないので他人様が心配してくださいます。

奇跡の塾だ、と褒めてくださった方もいます。齊藤さんなんて、あんなところで塾をやっている。自分達なんてまだまだ条件が良い、みたいな。

倉渕村出身の某大臣には「え?東吾妻で塾やってんの?だって、人口2万弱くらいじゃあないの?」などと言われました。

ここにも子供はいます。だから、塾の需要はあるのです。

開塾当初、果たしてこの土地で塾で飯が食えるか心配でした。有難いことにもうすぐ18年目に突入です。とはいえ、開塾時には近所の中学でも1学年45名位は生徒がいましたが、今では20名を切っています。子供の数は半分以下になっているのですね。

子供の数が半減しているというのに、厳しい入塾基準で塾生数を絞るということは経営上は正気の沙汰ではないのかもしれません。私は勇気があるのか、タダの変人なのか。

言えることはタダ一つ。

自分の教えたい人だけに指導したいということ。そして、今の指導スタイルに合う人だけに齊藤塾のサービスを提供したいということ。一人で教えている塾なので、できないことを無理してやろうとして、お客さんを失望させるようなことがあってはいけないと考えているのです。できることを確実に。

フリー通塾にすることで、何とか送迎の負担を軽くしたい。通塾回数の確保をしたい。そんなことばかり考えています。

いつでも通える塾、ということで、安っぽい塾だとは思われたくはないですね。勿論です。
いつでも通える塾というシステムは「私の本気度の現れ」を意味しています。

フリー通塾システムの危険性については十分分かっているつもりです。ひとつ間違えばワガママを助長するシステムだということ。親子の確執発生装置になることもあるということ。

だから、そのような危険は未然に排除したいと強く思っています。

さて、

そんなわけで、新年度(3月生)の募集定員は5名としました。

全部で5名。各学年5名ではありません。私が気持ちよく仕事できて、何とか飯が食える人数です。

入塾基準をクリアーできて、拘束時間の長さを覚悟できる人、トップ校だけを視野にいれている人、などの条件を考えれば5名が丁度良いところでしょうね。

トップ校を本気で狙う人を5名だけ募集します!

2月1日(日)にチラシを折り込むべく準備中です。といっても、目新しいところはありません。「オール5(またはオールA)12名の塾」という文言を追加しただけです。塾の色だけは明確にしておきたいので。

たまにはこんなブログもお許しを。

同業者の方には参考になったのではないでしょうか。ならないか。私も同じような塾の存在を知りません。

苦手克服法

苦手科目の学習は避けてしまうことが多いだろう。

学習していて楽しくないし、思うように進まないし、結果に結びつかないことも多い。

以下は私がお勧めする苦手克服法です。

まず、比較的薄く、基礎中心の問題集を用意します。
そして、その問題集を前にして正座し、「よろしくお願いします。今日からちゃんとやります」と問題集に挨拶し、1問1問解いて行きます。解くための場所と時間をしっかりとって、逃げずに立ち向かう姿勢を自分自身にとらせます。

つまり、「ちょっと今日はそんな気分になれないな。明日からやろうか」という逃げの気持ちにさせないようにするのです。儀式をしっかりやって自分の姿勢を正すのです。そうすることで新鮮な気持ちで立ち向かえます。

前回の復習をしながら、少しずつ前に進めるのは同然のこと。少し緩めの予定をたてて、何か所か通過予定日を決めておきます。つまり、何ページの問題は何月何日に解く予定だ、ということを決めておく。これも、あまり欲張らずに緩めに決めます。

通過点を予定通りに通過することで、よしよしこの調子、と自分を褒めることができますね。

ここで大切なことは、緩めの予定とはいえ「絶対に」クリアーするということ。風邪をひこうが、お婆ちゃんが入院しようが、親に雪かきを命じられようが、それらは勉強しない理由にはなりません。だって、そのために緩めの予定を立てたのですから。

自分の設定した予定通りに問題集を進めることで、自信がついてきます。「ああ、自分は予定をクリアーできる人なんだ」と。その小さな自信は次の予定をクリアーする勇気となります。そして、少しですが勉強が楽しくなってきます。やればできる人なんだ、と思えるようになってきます。次の予定を立てる楽しみも出てくるというものですね。

以上の方法は、様々な制約下でも実行できるかと思います。計画をたてて、自分を緩めに縛ることで「何となく気が向かないから後回し」という気持ちにさせない。逃げの気持ちにさせない効果があります。

是非お試しを。

いつも言っているような、狭い範囲を徹底的にやっつけるやり方とは対極かと思います。完成までの時間が限られている場合には有効ですね。

この方法のこつは欲をかかないこと。苦手科目克服なのに欲をかいてはいけません。まずは、その科目が他の科目の足を引っ張らないレベルまでもってゆくことを目指すのです。当然ですよね。

60点しか取れていない科目について、「まずは80点取ろうよ」と言うと、「それでは足りないんです。90点欲しいのです」という人がいますが、そういう発想の人は大変心配です。下から一つ一つ積み上げるしか方法はありません。

齊藤塾では、一人一人に私がプリントを与えて指導しています。実質的には個別指導ですね。一人一人別のプリントになることもありますし、同じプリントを学習していても到達目標の設定が異なる場合もあります。苦手な科目については基本的な部分の演習を多めにして確実性を重視します。得意科目については基本は軽めにして、学校では扱わないような発展問題中心の指導になります。隣どうしで学習していても、その到達目標が大きく異なることも少なくありません。プリント中心の自立型学習塾のメリットを最大限に生かすやり方だと自負しています。

最後はいつもの言葉。

努力とは継続のこと。継続とは今日もそれをやること。

他人の心配

受験生達は今日も自分と戦って行きました。

今日は日曜日のようなので、思いつくまま。



他人を心配することが大好きな人がよくいます。

私も、心配していただくこともしばしば。

他人の心配をよくする人にはある特徴があります。

それは、その人自身にあまり触れて欲しくないことがあるということ。
触れられない部分に真実がある。

「心配攻撃」によって、そこに触れられることを防御しているんですね。
攻撃は最大の防御。

もし、それを見透かされてしまっていたとしたら、何とも恥ずかしいことになります。

気を付けたいものですね。

え?

オマエの今日の文章自体、「心配攻撃人間」を心配していることになっていないかって?

しまった!

特に男にはこの傾向が強いようです。(「男」のせいにするなって。)

では、録画してある「花燃ゆ」でも視ますか。
いろいろ批判されているようですが、私は楽しみにしています。
要するに、どこを見るかという問題ですよ。



日本語の主語

実力テストの文章で、日本語にはそもそも主語がない旨の一節に出合った。

わが意を得たり、と思った。

「私がゆく」の「私が」は主語。
「(私は)あなたが好き」の「あなたが」は対象を表す、とされている。

こういう説明に違和感を持つのは私だけではないかと思う。
(塾の指導者としては定説にしたがって教えるのは当然なのだが。)

「格助詞『が』には様々な意味があってこの『が』は主語を表す」などと言ってしまっては味わいがなくなる。上の二例でも、「が」はその直前の単語(つまり、「私」や「あなた」)を際立たせているという役割を担っている。役割は同じ。さらに強調したい時には「は」を用いることになる。

それだけのことだと私は思っている。

日本語の文章ではしばしば主語が省略される、ともよく言われる。省略と言われれば確かにそうなのかもしれないが、そもそも「主語」という概念自体が曖昧だったのだと私は思っている。あるいは、そもそも主語というものに対する関心が薄かった。

古典の問題では、主語を答えさせる設問がよく見受けられる。内容理解が曖昧だと答えられないから良い問題だともいえる。しかし、古典ではそもそも何故これほどまでに主語が示されないのか、ということが話題にされることはまれだ。後世の人が解釈に迷うほど何故主語を示してないのか。

私が思うにそもそも主語という感覚が乏しかった。だから主語を示す必要性もあまり感じていなかった。それが普通だったから、読者も何の不便も感じていなかった。

主語という感覚が日本にもたらされたのは、外国語が本格的に入ってきた明治以降なのではないだろうか。何の研究もしていない私がその直感だけで、問題提起をするのは危険すぎるのでこのくらいにしておくが。

格助詞の「が」は周りから少し際立たせる役割をもっている。ただ、それだけ。
分類しすぎると味気なくなってしまう。
古典も味わい重視でゆくなら、今とは別のアプローチもあるかと思う。

日本語は人を指し示すことを嫌う言語だと思う。明治までは本名まで伏せていたりしたのだから。これが言霊思想と関係しているかは知らない。英語圏のようにファーストネームでは呼ばす苗字で呼ぶ。できれば役職で呼ぶ。できるだけ遠回し。

日本人はダイレクトに指し示されると、突き刺されたような痛さを感じるのかもしれない。

「〇〇様におかれましては」などは典型かもしれない。〇〇さんが、などと動作主をストレートに示すことを嫌う。「場所」で表す。そういえば、名前や家の代りに場所名を使うことは昭和初期あたりまではかなり見かけられたようだ。

敢えて示さなくてもお互いに分かりあえるのが日本人。いや、分かりあえていないかも知れなくても、分かりあっていることにしてしまうのが日本人。「そうだよなあ」と相槌を強制された瞬間に相手の仲間にさせられてしまう。
言うまでもなく、こういう空気感は時として危険をはらんでいる。もちろんだ。

昔の話。
東京でタクシーに乗ったら、野球のナイトゲーム中継がラジオから流れていた。
「勝ってますか?」と私が聞くと。「勝ってる、勝ってる、5対1で。ピッチャーが〇〇だから今日は大丈夫じゃあないの」
これで会話が成立した。東京では大多数が巨人ファンという大前提があった時代の話。

群馬県公立高校後期入試の傾向

今日は前橋で群馬学習塾協同組合主催の塾用教材展示会がありました。

私もスタッフとして参加してきました。

個人塾中心に40塾ほどの参加がありました。例年以上の盛り上がりでしたね。気合いの入った塾の多さに、私も気が引き締まりました。

今年は特に目新しい教材はなかったのですが、教材屋さんとの話の中で何かのヒントやアドバイスを得たいという意欲の表れかと思いました。私も教材屋さんとの立ち話やセミナーからヒントを頂いて、塾の方向性を修正したことが過去に何度もあります。

教えて頂いた情報をこのブログで少しずつ取り上げたいと思っています。

まず、群馬県入試の全般的傾向について。

移行措置を含めた指導要領の改訂に伴って、入試問題も変わります。県によっては、新分野を率先して入試問題に盛り込むところもあります。群馬はどうかというと、他県の動向を見極めてから徐々に新分野を盛り込むという県です。そういう意味では、今年の公立高校後期入試ではそろそろ新課程の範囲が出そろってもおかしくないですね。

群馬県後期入試の特徴として、試験時間を各高校で独自に決められるという点があります。上位校は英語や数学の時間が長めにとってあります。これは、最後の大問をしっかり時間をかけて解くようにとのメッセージです。難しい問題で差をつけたいということですね。小問の配点は非公表ですが、明らかに難問の配点が高くなっているはずです。これは高崎高校の先生も名言しておられたことです。

勉強は誰のため

中央中等、佐久長聖中受験生の健闘を祈ります。



親に言われて仕方なく勉強している人がいる。
「しょうがねえなあ。母親があまりうるさいから、少しは勉強してやるか」って。

極端な母親は「〇〇ちゃん。お願いだから勉強して」って。

叱っても勉強しないのだから、泣き落とし戦術。
まあ、問題外。

子供の方も親の下心が見えすいているような気がして、不愉快なんでしょうね。

「オレの人生なんだよ。干渉するなよ。オレの勝手だよ」とでも言いたげ。

オレの勝手?

そうだろうか。

勉強は親の為にしているのではない。それは当たり前だ。じゃあ、自分の為にやっているのだろうか。

それも違う。明らかに違う。

ひとりひとりが自分の幸せだけを考えて最適解を求めて行動すれば、結果的に社会全体としても幸せになる、などということはないのだ。

理由は簡単。人間は社会的動物だからだ。好むと好まざるとに関わらず、人間という動物はそうにできている。この事実からは誰も逃れられない。

だから、個人主義を突き詰めすぎると皆幸せを感じられなくなってくる。個人の自由を突き詰めすぎると、今の日本社会のように孤独な人が増えてしまう。何だかおかしい、こんなはずじゃなかった、って。

だから、勉強は自分の為にしているのではない。人間である以上、勉強は社会に役立つ人間になるためにやっている。社会の為に役に立つ人間になれて、初めて私達は生きて行ける。社会の役に立っている実感を持てて、人間は初めて幸せを感じられる。だから、幸せになることイコール社会の役に立つ人間になることなのだ。

勉強はその為にやっている。

逆に考えると、社会の役に立たない人間になることほど怖いことはない。そういえば、私は高校卒業から大学に入るまでの4年間、社会の役に立っていないという不安感にさいなまれていた。いずれ役に立つ人間になるための充電期間なのだからこれで良いのだ、と常に自分に言い聞かせて、その不安を打ち消していた。

勉強することは学生にとって義務だ。

そこに選択の余地などない。どこの社会でも学生に勉強する機会が与えられているのは、いずれ社会を支える人間になってもらう為だ。勉強を放棄することは、別の社会で生きてゆくことの宣言に等しい。しかし、そのような人を受け入れてくれる社会はない。少なくとも人間の社会にはない。
プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

齊藤塾合格実績・・・前高、前女、高高、高女、高専、渋高、渋女、高経附、佐久長聖中、中央中等、樹徳中、埼玉大、新潟大、群馬大、静岡大、高等工科他

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