『こころ』
夏目漱石はちょうど100年前の人だ。
代表作『こころ』は朝日新聞の連載小説だった。
その長編小説の大部分が、「先生からの手紙」という体裁をとっている。
長編の大部分が長い長い手紙で構成されているという不思議な小説。
「先生」の衝撃的な告白へと続くにせよ、なんだかその「手紙」の長さがやたらと気になる。研究者によると、『こころ』の連載への反響があまりに大きく、どうも少し「ひっぱった」ようなのだ。新聞社の意向だったのだろうか。読者の反響が大きい連載小説が続く限り新聞が買ってもらえる。そんなことでストーリーの長さが変わるのか、そもそもストーリー構成を考えてから書き始めていたのではないのか。様々な疑問が浮かび上がる。
日本を代表する作家の、さらにその作品群の中でもトップ人気になろうかという小説の長さがそんなことで決められていたとは。勿論、真実は分からない。あくまでも研究者の説なのだから。
少しでも早く小説の続きを読みたいと、ワクワクしながら朝刊を手にしていた人が沢山いたであろうことは紛れもない事実だ。100年前の日本。まだ、ラジオ放送も始まっていない。勿論テレビも。
当時、新聞小説を読むということはリアルタイムで進行する生まれたてのストーリーに接する刺激的な行為だったに違いない。100年前の日本人は情報の大半を新聞や雑誌で得ていたのだろう。そして娯楽のかなりの部分も活字によって得ていたのかと思う。だから、小説家は憧れの職業。
活字を読むという「自主的な」行為でしか情報を得られないわけだから、自然に読む力は鍛えられたろう。当然だ。人間は好奇心の塊だ。やることがない時でもその好奇心を満たそうとする。
今の私達は読む習慣が衰え、それと並行する形で考える力までもが衰退しているとしたら、これは深刻などという言葉では表現できないほどの問題だ。
そういえば100年前の日本人は、漢文の一節を前提とした会話が普通に成り立ったという。本当なのだろうか。日本人共通の素養として、ベースに論語など知識があり、それを前提にして(解説不要で)話が展開したという。今では信じられないことだが。英語教育が重視されるに従って、漢文教育は急速に衰退していったようだ。
果たして、英語は漢文に変わりうる素養となれているか。