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ご褒美



ふ入りの葉っぱは、光合成できる面積を犠牲にしてまでもその葉自身を目立たせようとしている。そういえば、ふ入りの葉っぱを持つ植物の花はあまり目立たない。花が目立たない分、葉を目立たせているのだろうか。肝心の光合成を一部犠牲にしてまでも。

自然の柔軟性、不思議さ、面白さ。決して一番を目指さない。厳しい生存競争をしているのに、適当なところもある。

さて、

いつもの話。

最近の子供達。小学生あたりかな。

最近はお手伝いをしても、勉強で結果を出してもご褒美が貰えるらしい。ご褒美をくれるのは主に母親か祖父母。もし、軽い気持ちや「単なる習慣」でご褒美を与えているのだとしたら、ちょっと立ち止まって考えて欲しい。

ご褒美の意味。

ご褒美を貰った瞬間にお手伝いや勉強の意味が大転換してしまうという問題。

言うまでもなく、お手伝いや勉強はそれ自体に意味がある。本来ご褒美をもらうためにやるのではない。その点「大人の仕事」とはその意味付けが異なる。まあ、大人の仕事の方が話は簡単だ。「お金の為だけ」に働いていたとしても、それを責める人はあまりいないだろう。特に珍しいことではないし。お金を頂けるということは、それに見合った社会貢献をしているのは間違いないので「結果的には」お金以外の意味を持つ。そんな評価でもはずれてはいないだろう。必死にお金を稼いで家族を養う。それ自体が美しい行いかもしれない。

でも、子供のお手伝いや勉強は違う。

お手伝いは家族の一員としての「小さな社会参加」としての意味が最優先されるべきだ。まだ子供の自分でも自分の役割を果たすことで、家族という社会が回るために何等かの貢献ができているという実感。小さいけれども責任をもって仕事をすることで、貢献できたという小さな自信。その自信の積み重ねは、もう少し難しい仕事もできるかもしれないという勇気につながってゆく。「自立」への小さいが確実なる前進。

その実感を子供が味わっている時に、上から「はいご苦労様、いい子だねえ」と金銭を渡されたら、お金の為という意味が前面にでき来てしまう。それは屈辱以外の何物でもないだろう。子供が「小さな社会貢献」で得た自信と尊厳を、大人が力ずくで傷つけていることにならないか。何物にも代えがたい自信と勇気を手に入れる場面なのに。お金を与えることでそのチャンスを奪い、お手伝いの価値を一気にを下げている。

ご褒美が学ぶチャンスを奪っている。

勿論、私はお金は汚いものだなどとは言っていない。お金に対する教育は別の所でしてもらいたいということ。誤解のないように。

大人だって、命を懸けて取り組んだ仕事に対して「お金が欲しくてやったんだろう」と言われれば少なからず傷つく。私だってそうだ。プロなんだからただでは仕事はしない。でも、お金だけが目的のはずがない。子供ならなおさらだ。

ところが子供自身はそこまでは考えないことが多い。だから、ご褒美をもらえば嬉しい。自由になるお金のあまりない子供にとって、臨時収入は嬉しいものだ。子供の喜ぶ顔を見たくてご褒美を上げてしまう大人達。大人自身の感じている喜びの表明として、形あるものでその嬉しさを伝えようとする行為。それは良く分かっている。でも、あまりにも安易すぎないか、ということ。簡単に子供から「有難う」の言葉を引き出す道具。コミュニケーションツールなのだから目くじら立てるな、という人も多いかと思う。

でも、失うものがあまりにも大きすぎないか、と言いたい。子供の成長にとって一番大切な自信や勇気を実感させるチャンスを奪っているとしたら。

勉強についても同じ。後日書こうと思う。


ノーベル賞や金メダルをとって一番嬉しいのは、勿論本人だ。何物にも代えがたい喜びだと思う。もし賞金がゼロだったとしてもやはり嬉しいはずだ。
プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

齊藤塾合格実績・・・前高、前女、高高、高女、高専、渋高、渋女、高経附、佐久長聖中、中央中等、樹徳中、埼玉大、新潟大、群馬大、静岡大、高等工科他

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