褒めてコントロール?



昨日の続き。

褒め言葉をシャワーのように浴びせかければ人は変わる。
褒めて褒めて褒めちぎれ。
どんな人にも最低ひとつくらい良いところがある。それを見つけ出して褒めよ。

そんな言葉が教育界には溢れている気がする。

確かに、全く自信喪失状態になった子には有効かもしれない。ちょうど、病気の治療に薬が必要なように。でも、薬は病気の時にだけ有効なのであって、常用してはいけない。薬と麻薬とは境界線が曖昧だから危険なもの。まだ、多用することで効能は限りなくゼロに近づく。

「それだけ病んでいる子が多いのだよ」
そう言われてしまえば、もう言い返す言葉はない。実際、病んでいる子は多いのかもしれないが。

「齊藤塾の塾長は塾生を褒めない人なのですね。変なポリシーで指導しているんですね」

そう誤解されては困る。誤解されないように慎重に話を進める必要がある。つまり、こうだ。人を変えたいというある「意図」を持って褒めることはやめよう、と言いたいのだ。下心のある褒め方はダメだ、というと強すぎるかな。

人を自分の思い通りにコントロールしようとして、褒めるという行為を「道具として」使うことをやめよう、と言っている。
私に言わせれば、コントロール系の方が変なポリシー(ポリシー以前ですね)だと思うのだが。

だから、私は塾生や自分の子供の良い点を一つでも見つけ出して、褒めるチャンスをうかがっている、などと言うことはない。意図的に褒めようなどとはしていないから。

では、私はどんな時に褒めるか。簡単なことだ。自然な感情の発露として褒める。つまり、つい褒めちゃう。そんな状況の時には決して我慢せずに褒めてしまう。そう、いたって自然。だから、褒めたいと言う気持ちにならない時には褒めない。だって、自分の気持ちに嘘をつくことになる。嘘つき先生はダメ先生だ。褒められる方も会心の状況にあるときに、自然な感情として褒めるから双方気持ち良い。

自然な感情の発露として褒めることに副作用はない。副作用とは何か。コントロールしようとして褒めるという上下関係の場合には、褒められようとして常に相手の顔色をうかがうようになる。これが副作用。自分中心ではなくて、相手中心の生き方。

また、書きます。

「褒めてコントロール」の是非



「褒める」という行為。

褒める人が上で褒められる人が下という上下関係。褒める人は「評価する人」。褒められる人は「評価される側」の人。褒められるか褒められないか、良い評価を得られるか得られないかは上に立つ人の判断に委ねられている。

下に立つ者は何をすれば上に立つ者に褒められるか、何をしたら叱責されるかを受動的に「学ぶ」ことになる。当たり前だ。下に立つ者が決められるはずがない。褒める基準がコロコロ変わるような評価者は論外だ。問題は、下に立つ者が常に上に立つものの評価にさらされてコントロールされているということ。

そもそも教育とはそういうものだ。そもそも指導とはそういうものだ。

そういう考えの大人は多い。

でも、ちょっと立ち止まって考えて欲しい。

例えば、ある小学校の教室があったとする。児童達が常に担任の顔色ばかりうかがっているような教室。果たして健全だと言えるだろうか。封建的な教育を批判しているのではない。それは論外だから。そうではなくて、良いことは褒めろ。悪いことは叱れ。世間では「当たり前」とされているそんな教育観に疑問を呈しているのだ。そのような教育観をもとにした指導がうまく行って、児童達が担任の「期待通り」に行動したとしても、それで良いのだろうかということ。担任の立場から考えると、自分の思うように児童達が動き、場合によっては先回りして行動する児童達に囲まれたとして、それが教育者としての充実感につながるのだろうか、ということ。児童の立場から考えると、担任の期待通りに動けるようになった自分を自覚したとして、それで何かができるようになったという自信に繋がるのだろうか、ということ。

封建的な教育観は否定された。すると今度は、学校はサービス業だとばかりに父母達に対して下手に出てしまう。どうも、バランスの良い位置取りは難しいようだ。

「自ら考え自ら行動する」

言葉だけが踊る。では、自ら考えるとはどういうことか。勝手にやっていいのか。そんなことはない、と言う。では、どう行動するのが良いのか。それを考えるのが「自ら考えること」なのだ、と。それでは分からないではないか。つまり、スローガンだけ。雰囲気だけ。言葉だけ。
そういえば、「創造的教育」などと言う言葉もあった。創造的とは何か。独創的ならよいのか。いやクリエイティブなことだ。そんなの、英語にすれば分かったような気がするだけだ。何が創造的かをクリエイティブに考えよ(?)。

自ら考え、行動することは苦しくつらい。全く評価されないかもしれない。それでもかまわないというどっしりとした自信。苦しくてつらいが自分で考えて行動したというシビレル体験に裏打ちされた自信。

このブログでは、そんなんことを考えて行きたい。

冬桜



枝の先に見える白いもの。冬桜の花です。

この木は春にも花を咲かせます。冬の花はまばらですね。ポップコーンが引っ掛かっているように見えます。隣の家の桜ですが、我が家の居間から良く見えます。最近は桜の花見をしながら食事しています。冬桜の花はなかなか散りません。この花はほとんど白色です。冬桜にもピンク色のものがあるかどうかは知りません。鬼石の桜山が有名ですが、このような色だったと記憶しています。この桜は数年前に亡くなった桜博士が自宅に植えたものです。

もみじと桜を一緒に楽しむ。
何とも贅沢な環境ですね。

さて、今日はちょっと気になった話題を軽く。

学生運動が激しかった頃、東大で入試が中止された年がありました。東大を目指していた優秀な高校生はしかたなく京大、東北大はじめ他の大学に進むか、浪人して東大を目指すしかありませんでした。
どうも、この年に東大を受験できなかった人達に有名人が多いような気がしてならないのです。宗教学で有名なNさん、今も大人気の社会学者Uさん、反原発で有名な原子力学者のKさんなどなど。

たまたまなのか、悔しい思いを学問にぶつけたからなのか、東大以外の大学での教育が東大に負けず劣らず素晴らしかったのか。ノーベル賞受賞者が東大以外の大学出身者でほとんど占められているのも面白いですよね。

中国でも科挙の試験に失敗し続け、漢詩の道に進み名を残した人は多いですね。日本では三大随筆の作者は全て「うまく行かなかった」苦い経験をしています。

試練が人を鍛える。何が幸いするか分からない。そんな普通の教訓を確認して今日は終わりとします。

発信力



今日は期末テストの初日だった中学校が多かった。午後1時ころから続々と塾生達が入室してきた。明日のテストに備えてワークの確認をする塾生、ワーク学習が終わり塾の予想プリントに取り掛かる塾生など様々だった。明日でほとんどの中学生の期末テストは終了する。高校生と一部の私立生の戦いはまだ続くが。

今日は近くの小学校で授業の見学をしてきた。最近の流行なのだろうが、発表型の授業が行われていた。一人の児童が発表し、他の児童が発表者に様々な質問を投げかける。発表者は一つ一つの質問に答えてゆく。
総合学習が導入されてから、発信型授業が増えたのだろう。指導要領にも確か書いてあったと思う。そもそも、総合の時間の最終目標はその成果の発表だったかと思う。学んだことを皆の前で模造紙などを使って発表し、学習を完結するというもの。

そういえば幼稚園でも、お勉強の時間に作ったものを最後に前に出て自分の言葉で発表していた。時代の流れを感じる。というよりは、文科省の意図を感じる、というべきか。

小学校での英語教育がさらに充実されそうだ。日本人の英語力の底上げが期待できるという人もいる。一方、小学校の段階で落ちこぼれを作ってしまう、と懸念する人もいる。意見は様々。正式に決まったものではないのだが、もう流れはできている感はある。これぞ日本的。

英語でも「発信型」が期待されているようだ。「英語でプレゼンができる」というあたりが期待される到達点なのだろうか。

十分な議論がなされないまま、小学校英語の充実が図られる。「充実」といっても従来よりも充実しているという比較の問題になってしまうが。準備不足は否めないが、そんなことお構いなしに「えいやあ!」と「改革」を進めて来た国だ。今回も同じだろう。何が起きても特に驚かない。現場の先生方は必至に対応するのみだ。

齊藤塾の指導として構想しているのは、「文法中心小学校英語」。中学校の文法を早めに降ろしてきてゆっくり文法を学ぶ。中学生で英語が苦手な生徒の大半は文法が分かっていない。まだまだ今の教科書は「体で覚える」系の流れを引きずっている。「文法用語はタブー」という御達しを受けて先生方も苦しみながら教えているようだ。今回の指導要領では少し「許された」のだが。

文法が「分かる」生徒は英語が分かる。そして、分かるとは母国語の論理で分かることを意味している。

だから、日本人は日本語を徹底的に鍛えねばならない。

創作と勉強



「どのような時に創作意欲が湧くか」という問いに、ある作家と詩人とが偶然同じ答えになり盛り上がっていた。

先日のラジオの番組でのこと。

その答えとは、「原稿の締め切り日直前」だと。

おいおい、何とも作家先生たちに対する憧れを打ち砕くに十分な答えではないか。

現実的過ぎる答え。作家先生たちの「日常」までが垣間見えてしまいかねない夢のない話。

でも、これこそが正直な答えであり、なおかつ創作というものの本質を見事に表現した言葉ではなかろうか。

締切間際ギリギリにになって、カレンダーやスケジュール帳と睨めっこしながら、あるいは編集者の顔を思い浮かべながら、間に合わなかった時の言い訳なども用意しつつ、「出てこない、出てこない」とイライラしながら「創作」に取り組む姿。
もしかしたら、これこそが創作行為の本質なのかもしれない。出てこないアイデアを無理やり絞り出す。いつになってもやる気が起きない状況でも、逃げるわけにゆかないのでとにかく机に向かう。

そんな作家先生たちののたうちまわる姿を想像したときに、憧れがさめるどころかますます彼等を好きになりはしないだろうか。彼等も普通の人間であり、仕事として創作というものを選んでいる。仕事である以上、やる気が起きないなどとは言ってられない。確かに凡人よりも優れた創作能力を持ち合わせてはいるだろう。しかし、何もないところからものを作り上げ、日々評価にさらされる苦しみと日々戦わねばならないのだ。仕事と戦っているのだ。そう、仕事と戦うという点においては私達と何ら変わらない人間なのだ。

私達は、創作というとアイデアが天から舞い降りてくるものだと勝手にイメージしてはいないだろうか。ないものを作り出す行為。それは地べたに二本足で立つ「普通の」人間が、その限りある能力から絞り出しているものなのだ。

今までになかったものを意図的に作ろうとする行為。

だからこそ、彼等は私達の想像を超えた作品をつくれるし、それが私達に心の底からの感動を与えてくれるのではないだろうか。創作の場に自分を追い込み、新しいものを創りだす行為を「仕事として」生きているという一点において、やはり作家は作家なのだ。凡人は創作をしようとして自分を追い込んで机には向かわない。

そう考えると、期末テストに逃げずに立ち向かう生徒達は将来仕事に取り組むための格好のトレーニングを積んでいるともいえる。

今日から期末テスト直前、期末テスト中の塾生は午後3時より前に入室してきている。やるべき時には逃げずにやる。塾生達は自らの仕事として自らの勉強と格闘している。格闘の場としての齊藤塾。

『こころ』



夏目漱石はちょうど100年前の人だ。

代表作『こころ』は朝日新聞の連載小説だった。

その長編小説の大部分が、「先生からの手紙」という体裁をとっている。
長編の大部分が長い長い手紙で構成されているという不思議な小説。

「先生」の衝撃的な告白へと続くにせよ、なんだかその「手紙」の長さがやたらと気になる。研究者によると、『こころ』の連載への反響があまりに大きく、どうも少し「ひっぱった」ようなのだ。新聞社の意向だったのだろうか。読者の反響が大きい連載小説が続く限り新聞が買ってもらえる。そんなことでストーリーの長さが変わるのか、そもそもストーリー構成を考えてから書き始めていたのではないのか。様々な疑問が浮かび上がる。

日本を代表する作家の、さらにその作品群の中でもトップ人気になろうかという小説の長さがそんなことで決められていたとは。勿論、真実は分からない。あくまでも研究者の説なのだから。

少しでも早く小説の続きを読みたいと、ワクワクしながら朝刊を手にしていた人が沢山いたであろうことは紛れもない事実だ。100年前の日本。まだ、ラジオ放送も始まっていない。勿論テレビも。

当時、新聞小説を読むということはリアルタイムで進行する生まれたてのストーリーに接する刺激的な行為だったに違いない。100年前の日本人は情報の大半を新聞や雑誌で得ていたのだろう。そして娯楽のかなりの部分も活字によって得ていたのかと思う。だから、小説家は憧れの職業。

活字を読むという「自主的な」行為でしか情報を得られないわけだから、自然に読む力は鍛えられたろう。当然だ。人間は好奇心の塊だ。やることがない時でもその好奇心を満たそうとする。

今の私達は読む習慣が衰え、それと並行する形で考える力までもが衰退しているとしたら、これは深刻などという言葉では表現できないほどの問題だ。

そういえば100年前の日本人は、漢文の一節を前提とした会話が普通に成り立ったという。本当なのだろうか。日本人共通の素養として、ベースに論語など知識があり、それを前提にして(解説不要で)話が展開したという。今では信じられないことだが。英語教育が重視されるに従って、漢文教育は急速に衰退していったようだ。

果たして、英語は漢文に変わりうる素養となれているか。

自分に合った学習法を探すこと



〇〇学習法なるものが時々流行する。そして、しばらくもてはやされ、時間とともに忘れ去られてゆく。後になって、ああそういえばそんな学習法が流行したっけ、などと時々話題になる程度になってしまう。

人は、自分に合っている勉強法というものを探すべきなのだ。一人一人、相性の良い勉強方法は異なる。だから、様々な方法を試してみる必要があるのだ。参考書についても同じことが言える。フィーリングが合う参考書もあれば、全く馴染めないものもある。

だから、最初はいろいろ試してみるしかない。その中なら自分にあった学習法、参考書を探すしかない。ある程度の試行錯誤はしかたない。

学校の授業は選べない。学校指定のワークも選べない。これについては与えられたものに従うしかない。それ以外の部分については大いに個性を発揮して、自分なりの勉強方法を探し出して「思う存分」学習を進めてもらいたい。

齊藤塾のような自立学習塾では、塾生の自由度は比較的高いと思う。「時間と場所」という枠は決められているが。その日に優先すべき学習を最初にするしかない、という制約もある。だが、それ以外の部分については比較的自由度が高い。特に、今のように期末テスト対策期間ではいつも以上に自由度を高くしている。

自分との闘い方が試されている。

期末テスト直前の連休二日目



今日も期末テスト対策でした。

朝8時時点で2名、9時時点で4名と続々と集まり、昼には満員御礼状態でした。当然ですね。期末テスト直前の連休二日目ですから。ものは考えようで、これだけ休みが多ければ自分のペースが学習ができます。自立学習できる生徒にとっては嬉しい制度でしょう。学校で授業を聞くだけで成績が上がるわけではないのですから。むしろ、歓迎してもよいのかもしれません。自分と向き合う時間を多くとり、自分の頭で考える。ピンポイントで分からないところだけ教えてもらう。それが一番良い学習方法でしょう。齊藤塾のような自立型学習塾ならそれが可能です。ただ、これは誰でもできる方法ではありません。特に未経験で他業種から参入された塾長さんにはお勧めできませんね。

既に期末テスト準備期間に入って10日近くなるので、生徒の学習もだいぶ進んできました。私がチェックプリントで軽く確認するだけで、あとは各自学習を進めています。プリントでチェックしてみると若干の学習漏れがあります。生徒はその単元を生まれて始めて学習するのでしかたありません。そこは毎年指導している私がチェックする必要があります。最後の「抑え」の部分はプロの仕事になります。最後の数点の上乗せができるかどうかは塾の力にかかってきます。私も気が抜けません。自立部分と指導部分とのバランスですね。

今回の期末テストは範囲が広いので塾生達も大変です。とはいえ、直前の予想問題プリントに取りかかっている生徒も増えてきました。まずまずでしょうか。

最後に耳の痛い話。

勉強だけしていれば褒められる子供がいたとしたら、その子はどれくらい幸せだかわかりませんよ。
そして、もしその子にその自覚がなかったとしたら、それがどれくらい可愛そうなことかわかりません。

クマが出た!



我が家でとれた豆は不ぞろいだが、自家消費するだけなので何の問題もない。除草剤も殺虫剤も使わずにとれたものは貴重だ。

齊藤塾のすぐ隣の地区でクマが出没したらしい。

車で5分ほどのところ。

この時期にまだ冬眠に入れていないクマは、さぞかし空腹なのだろう。クマはどんぐりを腹いっぱい食べないと冬眠に入れないと聞く。今年の山の実は不作なのかもしれない。季節を問わず、畑に人がいなくなった。そもそも人口減少が甚だしいのだからしかたがない。大きな家に高齢者が一人、二人で住んでいる。子供などめったに目にしない。何も知らない若いクマと人とが鉢合わせしてもおかしくない。互いに適切な距離を保てなくなっている。

さて、

一部の中学生は期末テストが終わったので次回の実力テスト対策を実施した。そのほかの中高生は期末テスト直前のテスト対策となっている。地元中学の塾生にとっては広い試験範囲との闘いとなっている。教科によってはテスト範囲は教科書で100ページを超えている。中間テストがない地域なのでしかたないのかもしれない。まあ、この地区の「伝統」。都市部の塾長にこのページ数を言うとひっくり返って驚く。この地区の中学校の先生にとっては「例年通り」のことなのだが。100ページの範囲のテストが複数教科にわたる中学校もある。「量との長い戦い」と言っても良いだろう。中3生は期末テスト直後に実力テストも控えている。そのあとは冬期講習。そして、私立特待入試へ。

ここまで書いたところで地震が来ました。
震源は長野県北部。進度6弱。
齊藤塾のある群馬県吾妻郡のすぐ隣。

長野県北部は、私がいずれは大地震が起こるのではないかと恐れている地域です。何があっても驚かないよう十分な準備をしておきたいものです。そんなわけで今日はここまで。

近所のクマも焦ったことでしょう。

個人差



ある生物学者が「豊かさとは何か」と問われて、「多様性のことだ」と即座に答えたという。

違うということは豊かだということ。

勉強のことだけに絞っても、生徒一人一人はあまりにも違う。
つまり、豊か。

学習方法、学習スピード、間違いの傾向など千差万別。
一斉授業という形態だって、教える側の都合という面も大きい。あまりにも違う生徒達に同じ言葉で語っても理解の仕方は一人一人違う。だからと言って、今のところ学校においては一斉授業しか思い当たらない。

その点、学習塾は様々な挑戦ができるので面白い。特に、個人塾はフットワーク軽くさまざまな工夫ができる。齊藤塾がもう少し大きな塾だったら、私がやっている指導法など会議で却下されたろう。理由は「無理だから」あたりかな。

一人一人が違うことを「どうしてこんなに違うのよ」と不満に感じるか、「こんなにも違うって面白い」とポジティブに感じるのかによって生徒達の見方が大きく違ってくる。面白いと思える気持ちを持ち続けたいものだ。

とんでもない発想をする人が科学の突破口を開いてくれることがある。
その人は普段は変人と呼ばれていたりする。

「誰が」社会を変えるのかは分からない。
未来のことは誰にも分からない。

だから、

一人一人には生きている価値がある。価値判断のモノサシは一人一人別のものが与えられる。
私は大したことができなくても、何世代か後の人が社会を変える仕事をするかもしれない。

いや、目立たない存在でも社会全体を優しく包むという役割を今現在担っている。
星野富弘さんの詩画集にあったように。
泣いたり笑ったりした日々を優しく包んでくれた「普通の日」のように。

15代続いた徳川将軍の中にも目立たない将軍がいる。でも、その目立たない人がいたから後に大きな仕事をした将軍が現れたわけだ。「つなぎ役」かもしれないが、つなぎがいなかったらそこで途絶えた。
野球でも、つなぎの投手が打たれたらそこで試合は終わってしまう。つなぎにはつなぎという「大きな責任」がある。

目立たなくても大きな役割を演じているのだ。
プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

齊藤塾合格実績・・・前高、前女、高高、高女、高専、渋高、渋女、高経附、佐久長聖中、中央中等、樹徳中、埼玉大、新潟大、群馬大、静岡大、高等工科他

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