補助線

図形の証明問題では、一本の補助線を引くことで、図形の見え方が全く変わることがある。補助線にはお決まりのものもあるが、多くはひらめきによるものだろう。ひらめきは、試行錯誤を繰り返せる人だけに身についてくるものだ。沢山の経験を積んだ人ほど、良いひらめきがやってくる。沢山の失敗をした人ほど、良い補助線が引ける。

「経験ってどうやったら積めるのですか」
とか、
「失敗を沢山するにはどうしたらよいのですが」
などと聞いてくる人は、全てのことに正しい道がある、という固定観念にとらわれている人だろう。

とにかくやってみる。それだけだ。

一つ動いてみる。それだけで「見え方」が全く変わってくる問題は沢山ある。
数学の問題に限らない。様々な「問題と呼べるもの」全てに当てはまることだ。

動かない人に限って、正しい動き方があるという固定観念に縛られている。
とにかく動いてみること。
これは書物では得られない経験だ。

読書は大切だ。当たり前だ。

しかし、書物に書いてあることの多くは「過去に結果が出たこと」や「多くの人が認めている共通認識」のようなものがほとんどだ。だから、書き手も「安心して」書いている。だって、結論については「保証付き」なのだから。だから、書物に現れているストーリーは結果からさかのぼって、逆方向からストーリーを組み立てているものが多い。結論が分かってから途中の筋道を整備している。丁度、迷路の正解のように。失敗した線は全て消し去って、正解のルートだけが示される。

騙されてはいけない。

この正解のストーリーだって、最初からこんなにきれいに組み立てられて来たものではないのだ。ボロボロの試行錯誤を繰り返し、みじめな失敗者達の屍の上を渡って来て、何とかたどりついた結論だったりするのだ。だから、教科書や参考書に書いてあることは「綺麗すぎる」。他の書物に書いてあることも「格好良すぎる」。そこにたどり着くまでの、ボロボロやドロドロを跡形もなく消し去って、あたかも最初から結論が分かっていたかのように書かれている。恥ずかしい失敗話はカットされている。

私達が知りたいのは、その失敗の方だ。見たいのは試行錯誤の記録。屍たち。

でも、それらはほとんど見せてはもらえない。

作家が自らの小説の推敲跡などを見せてくれることはまれだ。

しかたない。

だから、

自分の足で動くこと。
自分の手を使って補助線を引いてみること。
まずは一歩踏み出してみること。

「だって」と言う前に黙って歩を進めてみること。

ワクワクする世界がちらりと見えるかもしれない。全く違った視野が訪れるかもしれない。
動け!
小さな小さな一歩で良いから。

動くのは今この瞬間からだ。

明日からではない。

だって「小さな」一歩でよいのですよ。

代ゼミの単科

やはり、代ゼミのことは少しは書かないわけには行かないだろう。

代ゼミで働き、代ゼミで学んだ私としては、今回の代ゼミの業務大幅縮小のニュースを寂しい気持ちで聞いた。

以前から「講師の代ゼミ」とか「代ゼミの単科授業」という言葉は良く聞かれた。
その通りだと思う。

講師が自分の名前を冠する講座を持ち、その指導技術で勝負する「代ゼミの単科」は代ゼミという予備校を象徴する講座だと思う。代ゼミの良さはその自由度。授業を一コマ講師に任せて、「この枠内で自由に授業を組み立ててくれ。あなたの自由だ、細かい口出しは一切しない、その代りに生徒が集まらなかったら次回からの出講依頼はないかもしれませんよ。」という形。まあ、予備校サイドとしてはある意味丸投げ、生徒を集めれれば売り出せば良いし、ダメならもっとうまい人に差し替えるだけのこと。楽な経営ともいえた。

でも、別の観点ら言えば、勇気ある経営ともいえた。細かい口出しをしないで結果だけ求めさせる。そのことで講師が育つ。「任せて育てる」の典型。

勿論、講師としては自由度が高い分、自らの能力が試されるのだから真剣だし、これほどやりがいのある仕事もない。うまく行けばお金も稼げるし、自信にもつながる。一切授業内容には口出しされないのだから、力のある先生にとっては腕の見せ所となるのだ。

「代ゼミの単科」ではこれがうまく機能したと思う。代ゼミ側は講師が活躍する場と時間を確保してやる。講師は実際は期限付きの緊張感ある枠の中でその能力が試される。しかも数字で結果が出る。数字とはこの場合生徒数をだけをさす。何人の受講生を集めたか。それだけ。当時はアンケートも何もなかった。講師の評価は単純に集客能力で評価された。有名大学の先生も、有名私立高校の先生も、代ゼミを代表する専任講師も、駆け出しの講師も同列に「数字」だけで評価されていた。数字は残酷だ。毎年露骨に表れる結果に耐えられる講師だけが生き残ったともいえた。

ある意味、これほど「平等」な世界はないだろう。
だから代ゼミが好きだった。誰の目にも明らかな「数字」だけで評価される世界。日本社会特有のわけのわからないものの入り込む余地がなかった世界。

もう一つの平等。

それは「お金さえ払えば誰でも受講できること」だ。

勿論、有名講師の単科授業は受付開始直後に満席となるから、受付初日には早朝から並ばなくては取れない。逆にそれさえやれば「受けたい授業が必ず受けられる」のだ。
高校や大学のように入学試験があるわけではない。受講の為の学力基準があるわけでもない。早朝から並び、受講料を払えば受けたい人の授業を受けられる。これまた、究極の平等。だから、代ゼミが好きだった。(だから、私が齊藤塾に入塾基準を設けるにあたっては、相当悩んだ。)

高校でも大学でも、ある特定の講師の授業を受けたくて入学する生徒、学生は稀だろう。代ゼミの単科には、それがあった。「あなたの授業を受けたいのです」という生徒がお金を払ってやってくる。これほど、講師冥利に尽きる世界があるだろうか。

書いているうちに、つい熱くなってきてしまいました。昔のj記憶が蘇ってきてしまって。
後で、続きを書きますね。
私が今の仕事を選んだ「原点」ともいえる部分なのです。
(今回取り上げた内容は大昔の代ゼミのことです。)

今日は小学生の体験、見学を頂きました。実質的には入塾面談でしたね。
大きな夢がある生徒です。

来月からワクワクすることが、また一つ増えました。

水芭蕉の枯葉



水芭蕉の葉は枯れて茶色くなっています。奥の方に虫に喰われた大きな葉が残っていますが。
右に小さな池があるのですが、先日子供達が金魚すくいの参加賞(?)でもらってきた小さな金魚が数匹加わってだいぶ大所帯になりました。といっても、藻の影に隠れてほとんど見えません。酸素は十分に供給されていますね。

もう、夏も終わりですね。

近くの中学校では二学期が始まって一週間。
明日は早速体育祭です。

秋は祝日、振り替え休日などが沢山あります。上手に利用して通塾して欲しいと思います。

来春の高校入試について簡単に触れておきます。

吾妻、渋川地区は比較的競争率は低くなると思われます。
吾妻地区から通える高校で来春も倍率が高くなりそうなのは、高崎高校、高崎女子高校、高崎経済大学附属高校と高崎北高校ですね。これらの高校を受験予定の生徒は特に気を引きしめて学習して欲しいと思います。

前期試験で合格して早く楽になろう、などと決して考えないようにお願いしますよ。

前期試験は倍率も高いので合格はあまり期待できません。
あくまでも、後期試験一本に狙いを定めて長い戦いを勝ち抜きましょう。

チャンス到来!

今ある職業で、30年後にも存在するであろう職業はごくわずかだそうだ。

ロボットが肩代わりできるものはロボットがやる時代になるようだ。

では、何が残って何が残らないのか。
ある程度は予測できるだろうが、本当のところは分からない。
未来のことなんて誰にも分からない。

だったら自分の好きなことを仕事にしようよ。
絶対に後悔しないために。

最近の大学受験事情。

浪人してまで偏差値の高い大学を狙う受験生が極端に減っている。
代ゼミが凋落した原因の一つと言われている。
入れる大学に「現役」で入る、というのが最近の「はやり」だ。

「はやり」とは失礼な、就職難や家計の状況などを考慮しての賢い判断だ、と言いたいのかもしれない。
でも、私に言わせればやはり「はやり」だ。

人は、はやりに流される。皆と同じだと安心だからだ。人間とはそういう動物。

だったら、思いっきり自分の好きなことを集中的に勉強して偏差値の高い大学に行こうよ。
差別化とはそういうこと。
競争相手達が戦わずして去っているのだから、君の好きなことの競争相手も少ない。

群馬でもオシャレな高校は人気が高い。

人気が高いから当然倍率も高くなる。
倍率の高い高校に合格するには、死にもの狂いで勉強しなければならない。
オシャレに受験勉強した人は失敗して、死にもの狂いに勉強した人はオシャレな高校に受かり、オシャレな高校生活を送れる。まあ、そんなものだ。

不思議なことに、他人のやっていることと反対のことをやるオシャレというものは存在しないようだ。
「同じような」オシャレに人は殺到する。

だから、チャンス到来!

自分の道を見定めて、まっすぐに突き進む君にはほとんど競争相手はいない。



「大人になれなかった弟たちに・・」

米倉斉加年さんが亡くなった。

この名前を聞いて誰だか分からない人でも、中1の国語教科書に掲載されている『大人になれなかった弟たちに・・』という悲しい話の著者だと言われれば分かるかと思う。

終戦の年の7月に、幼い弟のヒロユキさんを栄養失調で亡くした米倉さん。その時の悲しい話は長年光村図書の国語教科書に載っている。ある年齢より若い多くの日本人が教科書で学んだはずだ。

ヒロユキさんの亡骸をおんぶしたお母さんとともに、「白い乾いた一本道」を病院から歩いて疎開先の村に戻る場面では胸が締め付けられる。

享年80歳。

米倉さんはヒロユキさんのもとへと旅立った。



素敵な俳優さんでした。ご冥福をお祈りします。

ガマンは死語か

「子供にはガマンすることを教えよ」

そんなことを言う大人がいつの間にかいなくなった。

一歩も引かずに歯を食いしばって耐えること。
こらえてその場で必死に踏ん張ること。
劣性の時にとにかく耐え忍ぶこと。

いつしか子供達がそんな体験をしなくなった気がする。
時には涙をこらえて耐えることも必要だ。

子供にそれを教えてやるのは大人の責任だと思うが。

満塁ホームランで失った4点を、犠打をからめて1点ずつ返して行くようなチームが好きだ。

実力テストは実力をつけてから

「実力テストは実力で受けてはいけません。実力をつけてから受けましょう」

言うまでもなく実力テストの準備はしっかりやりましょう、という意味です。
もっと言うと、実力テストを復習のきっかけにしましょう、ということです。

よく先生方は「普段からしっかり復習している人は、実力テストだって何の心配もない」などとおっしゃいます。でも実際は、復習の為の時間をあえて作っている生徒などごく少数だと思います。「今日は少し勉強時間が余ったから、1学期の最初の部分の復習でもしておくか」なんて言う人がどのくらいいるでしょうか。あるいは、日々の学習計画の中に、3か月前に学習した内容の復習を組み込んでいる人が、どのくらいいるでしょうか。ほとんどいないはずです。

だから、実力テストを復習の為の良いきっかけにするのです。モチベーションも上がります。これを何も準備しないで「今の実力で」受験するなんてもったいない。学年順位なども出るテストですから、やる気も起きますしね。

実力テストでは、数か月前に習った内容が出題されたりするので、ほとんど思い出せない内容もあるはずです。準備をしない人はそのストレスを感じて、さらに校内順位を含めた結果の恐怖に怯えることになります。一方、準備した人は、気持ちよい手ごたえを感じ、結果を楽しみに待つことができます。

両者にはとても大きな差が出るのです。

学年が上がれば上がるほど試験範囲は広くなります。つまり、準備せねばならない内容が多くなります。準備期間も長くなります。どうしても準備が間に合わなくなる。だから、学年が下のうちから、実力テストをきっかけに復習しておけば、その時に一度思い出すのでその後の復習がとても楽になるのです。

齊藤塾では夏期講習期間をほとんと復習に当てるのはそのためです。

吾妻郡内の中学校では先週から今週にかけて各学年で実力テストが実施されています。出題されている問題は齊藤塾の夏期講習で学習した内容そのまんまです。ほとんどの塾生達は考えなくても答えが出てくる段階にまでなっているので、何の心配もないでしょう。

このような地道な学習の積み重ねが前高、前女、高高、高女、高専合格につながるのです。

塾生達はテストの問題を見て、夏休みに塾で学習した内容と酷似した問題のあまりの多さに笑ってしまうかもしれませんね。結果を出す勉強とはどのようにしたら良いかを、塾生達に体感してもらえれば私も仕事をしたことになります。

負荷をかけること

昔、ある予備校のテレビCMで「無理なく実力をつけます」というフレーズがあった。
勉強には楽な道があるかのようなフレーズ。

楽をしていては決して実力などつかない。

勉強はつらい。つらいからこそ実力がつく。
筋肉は一度壊すから、強くなって再生する。
脳も同じだと考える。

多くの生徒達はそれを分かっている。一般論としては分かっている。
だが、今目の前の問題をどのように解くかという話になると逃げたくなることがある。
勉強時間の大半をノート整理という作業に「逃げ込む」のはその典型的な例だ。

実は、勉強は刺激的だし、楽しいし、感動的なものなのだ。
ただ、エンターテイメントのようにお金を払って待っていれば、誰かが楽しくしてくれるというものではない。主体的に関わらねば何も得られないのが勉強なのだ。嫌なこと、つらいこと、退屈なことを継続しなければならないのが勉強というものの特徴なのだ。

では、何故苦しみに耐えられるのか。何故、苦しい勉強を我慢できるのか。

それは、その苦しみを乗り越えた人にしか味わえない感動があるからだ。それを乗り越えた人にしか得られない世界があるからだ。苦しみに耐えることができる人はその感動の存在を知っている。感動をイメージする想像力がある。苦しみの向こうにある素敵な世界に飛び込めたときのワクワク感を知っている。苦しみを乗り越えなければ、決して得られないものがあることを知っている。苦しみを乗り越え、ワンステップ上がった時に「自分はこんなに凄いこともできる人だったんだ」という他では得られない自信が手に入ることを知っている。

勿論、結果についての保証は誰にもできない。でも、自分を信じて苦しみに耐えた齊藤塾の塾生達が希望を叶えてきたという「重い事実」を伝えることはできる。

さて、いよいよ秋になる。

受験生にとって、様々な「楽な道」へのお誘い話が耳に入ってくる時期でもある。
どこまで踏ん張れるか。苦しみの向こうにある、新しい自分をどこまでイメージできるか。
ワンステップ上がった自分を君がどこまで欲しがっているか。

目の前の苦しさから逃れる為の「変な理屈」が頭をもたげる時期でもある。

その「変な理屈」で君に期待している人々を失望させることのないように。
決して逃げないように。逃げた向こうに感動はない。

変な理屈は振り払い、ずっと前から君の心の深いところになある「本心」に素直になろう。
そうすることで「ステップアップした新しい自分」への思いが、目の前の苦しみを「単なる負荷」に変えてくれる。

鶏のいじめ

小学生のいじめについて書こうかと思いましたが、次の機会にします。
あまりにも残酷で、あまりにもデリケートです。

今回は鶏のいじめについて書きます。
人間のいじめよりも分かりやすい形で現れるいじめです。

私が子供の頃、我が家では鶏を飼っていました。黄色いヒヨコの時に飼い始めます。それはそれは可愛いものです。しばらくすると、羽が白くなり、頭に小さなトサカが生えてきます。この頃の鶏を「中ビナ」と呼びます。中くらいのヒナということでしょうか。

鳥小屋内ではありますが、自由に動ける放し飼いの状態での飼育環境。この頃です。鶏の「いじめ」が始まるのは。
エサの時間に配合飼料を入れ物に入れてやると、先を争ってガツガツと食べるのですが、そこで喧嘩が始まります。相手を口ばしでつついて餌を横取りする者。横取りされまいとつつき返す者。足で蹴る者。様々です。

生存競争は厳しい。全ての鶏が十分に生きて行けるだけの餌はあるのですが、われ先にと殺到するその姿は、生きるために全ての動物が見せる「本来の姿」なのかもしれません。

それで「いじめ」ですが。

この餌の取り合いの時に限らないのですが、少しだけ弱った鶏がいじめのターゲットになります。

相手の頭のてっぺん、つまりトサカのちょっと前あたりをくちばしでつつくのです。
振り向きざまにつつく。通りすがりにつつく。わざわざ追いかけていってつつく。まさにいじめ。

いじめられている鶏は一人だけ群れから離れたところに逃げます。それでも、何羽かがやってきてまたいじめる。当然、餌にはありつけません。体力が尽きて小屋の端の方にうずくまってしまうこともあります。それでもつつかれる。


そもそも何のためにそんなことをするのか。相手は弱りかけているのに。
いや、弱りかけているからつつくのかもしれません。ターゲットは常に1羽だけ。

集中的につつかれた鶏はどうなるか。
つつかれた場所から流血します。真っ白な頭から赤い血がしたたり落ちます。
そんなになっても、まだ周りの鶏はいじめ続けます。弱ってきている相手を容赦なくつつく。まさにいじめそのもの。
そのうちにつつかれた鶏の頭の傷は肉が見えたり、骨が見えたりするほどの重症になります。

いじめられた鶏は夜のうちに死んでしまうこともあります。何のために殺したのか。

なぜ、容赦なくつつく必要があったのか。相手が死んでしまうまで。

天敵に殺されるのではなく、仲間に殺される。それも意味もなく。

あまりにも可愛そうでターゲットになった鶏を隔離して育てることもありました。
そうです。そうすると、別の鶏が狙われるのですね。

鶏の世界では一度でも弱ったら生きて行けないのでしょうか。
まあ、狭い小屋で大量に飼育するという特殊条件下でのことです。自然界とは大きく異なっているとは思いますが。

中ビナの時期を過ぎると、鶏達のいじめは収まったと記憶しています。鶏のいじめは若者の世界だけなのかな。

いじめ問題が話題になるといつも鶏達の「いじめ」の記憶が蘇ります。




今日は小学生のお母さんから問い合わせを頂きました。

気がつけば、もうすぐ9月ですね。

中学受験をお考えの小6生。
夏休みの学習が思うように行かなかった中3生。
それぞれ1名ほどでしたら入塾可能です。お問い合わせください。
(入塾基準があります。ご確認ください。)

夏休みが終わったのでしょうか。

吾妻地区では今日始業式の地区と月曜日が始業式の地区があります。
いずれにしろ、夏休みは終わりつつあるようです。

今日も軽く業務報告だけです。

塾長直接指導型の自立型学習塾に変えてもう10年以上経つのでしょうか。
夏期講習も先取り学習を控え、徹底的な復習型で塾生の足腰を鍛える指導法を続けてきました。実績が出るに従って私もこの形に自信を深めてきています。

今年は、例年以上に指導しては復習、指導しては復習を繰り返してきました。

学校の実力テストや塾の実力テストが連日実施されていますが、私はゆったりとした気持ちで迎えることができています。ある程度生徒達の結果が予想できるからです。塾生達が大きな失敗はしないだろうという安心感ですね。

私が塾生達の指導を直接やって、生徒の出来具合を肌で感じていますので、落ち着いた充実した気持ちでいられるということです。

業界の方々はわかると思いますが、どこの塾でも夏期講習をやって二週間もすれば学習した内容をすっかり忘れてしまう塾生がいるものです。「夏期講習であんなにやったろう!」と叫びたくなりますよね。

そんな心配がないということです。

落ち着いた気持ちで9月を迎えられる塾長でいられることは嬉しいものです。

塾生達に感謝。嫌な顔一つせずに良く耐えてくれたものです。
自分のこととはいえ、目の前の学習に一つ一つ取り組むのは決してラクではありません。

気合いの入っている塾生達に囲まれて幸せです。



以上、自慢話終わり!
プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

齊藤塾合格実績・・・前高、前女、高高、高女、高専、渋高、渋女、高経附、佐久長聖中、中央中等、樹徳中、埼玉大、新潟大、群馬大、静岡大、高等工科他

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