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勉強は自分との戦い

勉強は自分との戦いです。もっと言えば、自分の弱さとの戦いです。

学習時間はすなわち「自分の頭を使って考える時間」だと私は考えます。

静かに、そして真剣に自分と向き合う時間。少し苦しく、少し退屈で、たまに面白くなる時間の確保。
ほとんどの生徒の場合、その時間は自分の子供部屋では作れない。

勉強しかできない時間と空間の確保。誘惑の多すぎる現代の子供達だからこその悩み。学校では授業を受ける。習い事も教わっている時間が大半。基本的にそれらは皆「受け身」です。

自分のペースで自分の頭を使って自分自身と対峙する時間の確保は、今や、た易いことではなくなってしまいました。

さらに、共働きが普通になった時代。家族による車での送迎が基本となっている田舎の塾で、どうやって指導時間を確保するのか。

模索した結果、私がたどり着いたやり方が自由通塾という方法でした。
今後、このやりかたの塾は増えると私は予想しています。

いつでも通塾でき、通塾日、通塾時間の変更が自由だということ。

齊藤塾では月初めに各塾生から「通塾予定表」というものを提出してはもらいますが、通塾日の変更は自由です。よく、個別指導塾などでは予定変更は2回まで可能、などとなっていますが齊藤塾では何回でも変更自由です。その代り、全体の通塾回数だけは減らせない、というシステム。

私のこのやり方を知った塾仲間からは、生徒はちゃんと通塾して来るのかとの質問をよく受けます。特に、齊藤塾のように学習時間が長く、講師から面白い話を聞ける訳でもなく、ひたすら自分と向き合うような塾に生徒が嫌がらずに通って来るのが不思議なようです。勉強は苦しい、という前提で出来上がったシステムですから私にとっては当たりまえのことですが。一般的な塾のように講師から何等かのモチベーション上げのようなものもなくて、ひたすら問題を解き続ける塾に生徒が嫌がらずに通ってくることが信じられないと思う同業者も少なくないようです。

齊藤塾ではこのシステムはうまく機能しています。

機能している最大の理由。それは、システムを理解している生徒だけが通塾しているということ。このシステムを受け入れられる腹のすわった生徒だけが通ってきているということ。このやり方に耐えられるだろうと保護者のみなさんが判断した生徒だけが通塾しているということ。学習の臨界点をイメージしてひたすら頑張れる生徒が来ているということ。

こんな田舎の塾でこんなやり方が機能することは驚きかもしれません。でも、現実なのです。

今後、少子化はさらに進みます。

少子化の影響が顕著に表れるのはまず田舎からだと私は思っています。そういう意味では、「時代の変化の最先端」かもしれません。私は「田植えと同じ」と言っています。標高の高いところから低いところは次第に降りてゆく。だから今後、10年近く前に私が模索したのと同じ模索を「標高の低い」個人塾は迫られることでしょう。
その時には参考にしていただけるかと思います。まだ、多くの個人塾は昔ながらの方法を継続できているようですから、変化する必要はないのでしょうね。追い詰められていませんからね。(失礼な言い方になっていたらごめんなさい。)

まあ、業界の話はともかく、そうやって自由通塾システムによって学習時間を確保することで齊藤塾は結果を出しています。送迎の都合、習い事の都合、部活の都合、学校行事の都合等を優先して良いから、通塾の回数だけは確保してください、そうすれば結果は保証しますよ、というやり方。良く考えるとこんなやり方を真似る塾長はいないかもしれませんよね。時代を先取りするやり方のような書き方をしましたが、真似しないかもしれませんね。まあ皆さんオシャレな生活が好きですから。

通塾時間、通塾日の変更が自由ということは簡単に言うと「今日でなくてもよい」ということ。「ちょっと今日は通塾する気分になれないな。明日にしようかな。」ということを繰り返していたら通塾する日がなくなってしまいます。このやり方が機能しているということは、齊藤塾は意識の高い生徒、保護者に恵まれていると言えます。やる気のある人が集まってきている。意識が高くない人は違和感を感じていられなくなってしまう塾かもしれません。

時々自分でも思います。「この土地でこんな塾が可能なんだ」と。

学力低下が叫ばれています。でも、私は断言できます。勉強する時間、空間、指導者が確保できれば勉強したい子供達は沢山いるということを。

今日も中高一貫校の生徒を中心に長時間の学習をして行きました。中間テストが近いですからね。
自分と戦い、質問する。自分と戦い、必要な教材をもとめる。少し苦しく、少し退屈。でも結果が確実に出るから頑張れる。そもそも勉強ってそんな感じですよね。量をやらないと結果は出ません。反復しないと結果は出ません。それらの確保が保証されている塾です。

アメとムチ、競争からの脱却

アメとムチでコントロールする指導法には限界があります。
競争をあおる指導法にも限界があります。

「これをしたら〇〇をあげる。」「これをしなかったら〇〇になってしまうからね。」
「さあさあ誰が早いかな。今日の一番は誰かな。」

子供をコントロールする時にうっかり発してしまう言葉です。
アメもムチも競争も短期的には効果があるかもしれませんが、すぐにその効果が半減します。子供はいずれにもすぐに慣れてしまいますから。
例えばアメ。勉強したらご褒美をあげるなどとやっていると、そのうちにもっと良い褒美でないと子供は動かなくなります。結果、どんどんエスカレートして行きます。それに大人が対応できるはずはありません。

対応できなくなった大人は「ものが欲しくて勉強するなんて動機が不純だ」などと言い出します。そもそもその「不純」な土俵に子供を引き込んだのは大人の方なのに。
ムチも同じ。どんなムチでも動かなくなったときに、それでも大人はムチをふるい続けるのでしょうか。子供はアザだらけになっても動かないかもしれませんよ。
競争も同じ。「負けたっていいや」と言われたらもうそれでおしまいです。早い子はいつでも早いから勝ことの感動がなくなる。遅い子はいつも遅いから最初から諦めてしまう。「だからハンディをつけるのですよ」って?
そもそも私達は何をしようとしていたのでしょうか。どんどん変な方向に行っているような気がしてきますが。

勉強は勉強でしかありません。

アメが欲しいのでもない。
ムチが怖いのでもない。
競争に勝ちたいのでもない。

「動機なんて不純だって良いんだよ。オレなんて女の子にもてたくって良い学校を目指したんだから」

そういう人もいますよね。でもその「不純」な動機って内発的ですよね。
やる気の起きないあなたに、大人から「良い学校に行くと女の子にもてるから頑張りなさい」と言われて頑張ったのではないはずです。

実はそれを問題にしたいのですよね。

大人がなんらかの意図をもって子供をコントロールしようとしたときに、子供の方がその意図を鋭く見抜いてしまうのです。そして、そこにまさに大人の都合が垣間見えるから子供は失望するです。大人にはウラとオモテがある、と。

「子供は何もわかっちゃいない。だから、騙してでも勉強させなければいけない。20年後に感謝されればそれで良いのだ。子供のためを思っていろいろやっているのだ。大人になった時に分かってくれるはずだ。」

そうかもしれません。大人の責任の重さを感じて外発的コントロールをしようとしているのでしょうか。でも、子供自身が自分のことを自分で扱っていないような感覚が残ってしまっては如何なものか。

最悪、親子の感情的対立になったら不幸です。
親の言葉はこどもにとってはあまりにも重いから。
「子供をいじりすぎるな」と言いたい。
子供には内発的に伸びようとするエネルギーがあります。大人などが想像つかないくらいの大きさで。
外からコントロールしようとすることで子供のエネルギーを阻害してしまいます。
子供は外からのコントロールには異常なまでに反発します。その位、自分から伸びようとしているのですよ。
コントロールを試みることは子供の耳には「君を信じていないよ」というメッセージに聞こえます。

勉強は退屈です。「つまらない」と「苦しい」の中間くらいだと思っています。退屈でつまらなくて時々苦しいけれども、それを継続して行くと震えるような感動を得られることがある。でも、その感動がいつ訪れるかはわからない。どこまでやったら感動という「ご褒美」がもらえるかは見えない。見えないけれども今日も継続する。何故、継続するのか。それが、勉強だからです。

勉強は勉強でしかありません。子供を勉強それ自体に対峙させてやることが大人の責任です。
そこから出発するしかないのです。そこから出発するから勉強というものの本質が見えるのです。
アメやムチや競争でごまかさない。勉強それ自体から目をそらしては見えるものも見えなくなります。いずれ訪れる感動も味わえなくなります。

この話題についてはまた書きます。

齊藤塾の指導方法の続きを書くつもりでしたが、別の話題になってしまいました。そちらの続きも書きます。

教えてはダメ、教えなくてもダメ

齊藤塾の指導法を一言で言えば、プリント反復学習の自立型ということになるかと思います。
「先取り学習をほとんどせずに、復習中心でトップ校に合格させる塾」もアピールしたいですね。

今日は昨日の続きで齊藤塾の指導法の説明を続けたいと思います。

私が自立型の指導法を導入してからもう10年近くになりますが、何年やってもデリケートな指導法だと思いますね。

学習というものの本質に迫る指導法だとも思います。

「教えてはダメ、教えなくてもダメ」

本来、自分の力で到達したものだけが自分のものになります。だから、できるだけ生徒本人の力で正解に到達させなければなりません。生徒自身で到達できそうなものについては、私が余計なことを言ってはぶち壊しになりますから。この場合には見守ることが私の仕事になります。生徒が自分の力で到達することを「見守る」こと。これってそうたやすいことではありません。だって、月謝を頂いておいて「見守る」のですよ。見守ることで結果が出て、実力がつく場合には見守るのが塾長の仕事になります。力がつくことを「見届ける」といったら良いでしょうか。

頂いた月謝は「教えたこと」への対価ではなく、結果に対する対価だと考えますから。「教える」という仕事をした経験のある人ならお分かり頂けるかと思いますが、実際教えてしまう方が遥かに楽です。分かりやすく教えられるのに、教えないで我慢し続けることはさながら修業のようです。

教えたらダメ。生徒自身の力で到達させること。

「教えてくれなかった」と言われる恐怖との戦いでもあります。だいぶ慣れましたが、やはり「塾なのに教えてくれない」「お金を払っているのに教えてくれない」と言われるかもしれない恐怖とは常に戦っています。教えてしまえば、少なくともその恐怖からは解放されます。しかも、限られた時間内での指導です。分からないまま帰宅させるわけにはゆかないのです。

生徒の考えが深まっていない場合には「もう一度よく考えよう」「問題を読み直そう」「図を描いて考えよう」などの一言だけです。

ヒントを出す場合。そのヒントの出し方。

生徒が詰まったときには、ピンポイントでヒントを出します。そのヒントも荒っぽいものから順に丁寧なものへと生徒の様子をみながら変えてゆくのです。それも、学校のテストの予定をにらみながらの作業になります。テストまでの日数がない場合には教えてしまって復習に重きを置くほうが結果に結びつきます。

できるだけ教えないで生徒の到達を見守る塾なのですが、状況によっては教えるのです。

教えなくてはダメなケースもあります。

教えてもらわなければ分からないようなことを、時間をかけていくら考えてもできるようにはなりません。当然です。ですから、生徒によって、また学習項目によって教える部分の比重を大きくする場合もあるのです。生徒は人生で初めて今の課題に取り組んでいることが多いのです。

ただ、教えすぎは絶対にダメです。私が解いてみせると生徒によっては自分で解いたように錯覚してしまいます。あるいは私に頼りすぎてしまうことも出てきます。そうなってしまうと、生徒は「楽」です。生徒が楽をすると結果には結びつきません。それでは何のための塾だかわかりません。教え過ぎることは、生徒に実力をつけさせることにはならないのです。

齊藤塾のように学校と塾とが車の両輪のようになっているケースは珍しいかもしれません。導入部分は学校に任せて、齊藤塾が演習を担当するという役割分担です。だから、学校の先生が生徒に期待している自宅学習の部分を、私が手助けしているような形になります。学校の先生の導入が上手だと私の仕事がかなり楽になります。勿論、その逆もあります。

学校の進度を細かくチェクして、教科書のページ指定ができるプリントで反復学習をします。その反復の回数も生徒によって様々です。学校の授業だけで十分に到達できている生徒はプリントに基本問題が多いとさすがに嫌になります。時間がもったいないともいえます。そういう生徒には基本問題を減らして、応用問題で刺激を与えます。ただ、やはりどの生徒にとっても初めて習うことが多いので、安心は禁物です。基本問題でのチェックは欠かせません。

基本的には演習問題は私が選びます。私の方が単元の内容を「分かっている」からです。自立型とはいえ、全面的に生徒主導にはしてはいません。結果を出すために最善をつくすのが塾の目的だからです。

単元テストなどが近づくと生徒からその旨申告があります。その時には予定の教科を変更してテスト対策に切り替えます。テスト範囲をページ指定して打ち出したプリントでの学習に切り替えます。今日もそのような生徒がいましたね。連休があけるとテスト、という流れはいつものことです。

以上のような指導法ですから、マニュアル化は無理です。何人かの塾長さんが私の指導法についてメール等で質問してきましたので、教材名まで挙げてお伝えしましたが、多分同じことはやられてないと思います。真似たくならないのではないでしょうか。

プリントを使用する最大の目的。それは反復学習がやりやすいからです。プリントなら二回目、三回目の問題を即座に生徒に渡せます。それとプリント教材の方が類題の数が圧倒的に多いというメリットもあります。一回学習分を少なくすることで、私がこまめにチェックすることもできます。チェクして次に進むべきか、もう一度やらせるべきかの判断ができます。その判断によって学習効果は大きく変わってきます。テスト前のまとめプリントの場合には一度に大量に与えることもあります。勿論、塾用ワークも良いものが沢山ありますので併用することも多くなります。ただ、ワーク教材で私のやり方を実行するのは難しいかと思います。イメージできません。だから、各社のプリント教材を買い集めました。一人で指導している塾でこれほどプリントを買い集めた塾は他にはないでしょう。これには自信(?)があります。教材のデーターベースが大きくないと、一人一人の生徒に対応はできません。大手塾で5教科教えていた私だからできるやり方かもしれません。

齊藤塾は私語一回で退塾となります。

今日も教室内では私の指導する声とプリント打ち出しのプリンターの音、それと鉛筆の動く音だけが聞こえました。毎日そんな感じです。これは生徒達にとっても普通のことです。

また、書きますね。

一人で教える塾のメリット

今日は齊藤塾の指導法について書きます。

せっかく確立したノウハウを公表するのはもったいない、とアドバイスしてくださる方もいるのですが。
自分で言うのもなんですが、はやり特殊な指導法だと思いますので

こんなやり方もあるのだ、ということをお伝えしてもよいかと思うのです。

このブログは同業者の方も読んでくださっているかと思います。もし、私の指導法に深刻な問題点が見つかったようなら是非連絡を頂きたいのです。

今日の指導内容あたりから紹介。

吾妻地区の中3生は明日、第1回校内実力テストを実施する中学校も多いようです。まあ、これは実質的には業者テストの復活、偏差値の復活を物語っていますが、これ以上は触れないでおきます。せっかく皆さんが望んでいる方向に流れが向かっているのに、余計なことを言う必要などありませんからね。でも、20年以上かかりましたよね。偏差値がなければ進路指導なんてできません。だから皆さん使っているのです。でも、まだ「偏差値」をいう言葉だけは使えない。ギャグですよね。

おっとまずいまずい、私の指導法の話でしたね。

実力テストに備えて実戦問題プリントを生徒が各自解いて私に提出し、私が丸つけをして返す。生徒は返却されたら解き直して私に再提出し、丸つけをしてもらう、ということを繰り返します。問題によっては私がヒントを出したり、教科書のページを示して考えさせたりする。全問正解になったら生徒に返却して、次回の通塾時にもう一度解かせる。そんな感じです。

あまりにも普通すぎますか。どこにオリジナリティーがあるのか、と叱られそうですよね。だからこのブログでも「普通」を強調しているのです。「普通」にやることって難しいのですけどね。

私のアドバイスは「図を描いて考えてみよう」、「教科書のここをよく読んでみよう」、「この問題を先に解いてみよう」など様々です。それと、同じ問題についても生徒によってその採点は厳しめにしたり、甘くしたりこれも様々です。生徒一人一人を普段から見ている私だからできるやり方でしょうね。今よりも少しでも得点を伸ばすことに目的があるので、各問題で完答を求める場合と部分点でもよいから取らせるべきか生徒によって見分けてゆくわけです。特に苦手な問題については完璧を求めるよりは少しでも得点を上積みすることを目指します。生徒の得意、不得意を見分けながら作業を進めることになります。

ヒントをどこまで出すのか。意図的に荒っぽいヒントにするのか、説明の多いヒントにするのかを判断して行かねばなりません。正解にたどり着くまでの距離を微調整しながらの指導ということになります。距離が遠すぎてつらくなってしまう生徒もいます。また、ヒントが多すぎて挑戦する気がなくなってしまってもいけません。

生徒によっては、まず基礎的ワークに戻ってから実戦問題を解かせた方がよい場合もあります。今のところそのような生徒はいませんが。

教え過ぎてはできるようにはなりません。かといって、教えてもらわないと分からないことは教えてやり復習で力をつけさせるべきです。このようにデリケートなことを生徒や保護者の都合、学校行事の都合などに合わせながら最大限時間を有効に使いながらやってゆきます。

特に中3生の場合には普段は実力テスト範囲の学習をしてゆき、学校の単元テスト、期末テストの前には中3の範囲に切り換えて学習させます。単元テストは突然やってくることも多いし、予定通り実施されないこともある。また、抜き打ちにあることも。それらを「予想」しながら生徒の学習内容をコントロールして行く作業に気の休まることはありません。

以上のような指導を複数の指導者が同じ指導レベルで行うことは不可能ですし、アルバイト講師などが行えるとはとうてい思えません。

まるつけの「作業的」なことは誰かに任せようかと考えたこともありましたが、断念しました。最近の問題は記述式が多く、機械的作業ではできないからです。デリケートな部分が多すぎるのですね。

自分で手を動かすこと、思いめぐらすことに重点を置いて指導しているつもりです。生徒が自分でそのようなことができるようになると急速に私の仕事は楽になり、生徒が結果を出し始めます。
その瞬間を楽しみに5月の指導は続いてゆきます。

まずは7月までが勝負です。

後で続きを書きますね。

外は大雨です。

退屈との戦い

かつて、子供は遊びの天才だった。

広場に集まった時点では何をして遊ぶかなど決まっているはずもない。
そもそも誰が来るのかも分からないのだから。集まった子供達は集まった順に遊びだす。

毎日異なるメンバーで異なる遊びで。
何が起きるか誰も予想つかない遊びの流れ。

でも、誰かが言い出して、誰かが賛同して遊びは始まる。そして、5分後には皆もう真剣そのもので遊んでいる。
何も決まらない状況から、真剣に遊べる状況まで何と短時間なことか。

子供は退屈が嫌いだ。だから、空き缶一つ、ボール一個でもあれば十分に遊びが始まった。

「無」から「有」を作り出す天才は子供達だった。
多分、遊びながら脳はぐるぐる回っていたはず。

最近は遊びまで大人がリードしてくれる時代になったようだ。
限られた時間を「有効に」使って、そこそこ満足のゆく遊びを体験させてくれるのだらろう。

でも、セットされた遊びは遊びではない。

何が起きるか分からないワクワク感、ドキドキ感がないから。
「期待通りの満足が得られる」遊びなんて遊びではない。
全然うまく行かなかったり、喧嘩になったり、仲間外れにされそうになったり、妥協したり、主張しすぎたり・・・。
そんなことを子供達だけでなんとか折り合いをつけてゆく。

そんな体験の積み重ねが人を強くしてきた。
そんな体験の積み重ねが人を「創造的」にしてきた。

何もないところから、何かを作り出さないと遊べなかった。
まずは退屈があって、そこから何かを生み出して行った。

そこに心の底からのワクワク感が生まれる。
それこそが生きている実感につながる。
「生きる力」を醸成するためなどと言って大人が構想したものの先にはワクワク感などあろうはずもない。
限られた時間と空間を「有効に」使ったらもうそれは遊びではなくなる。

もっとはちゃめちゃに自由なのが子供だ。

そんな体験を積み重ねた子供は「無」から「有」を生み出せる人になれる気がする。
いつも退屈から出発していたから。
それは普通のことだから。
誰かにリードしてもらわなくても下手なりになんとかしてゆく。

それはきっと、大人になってから「自分だけの」人生を生きてゆくワクワク感につながる。



まだこどもの日の余韻が残っていますのでこんなことを語りました。
ないものねだりに聞こえたかもしれません。

〇〇さえあれば

ああ、もうすこし時間があれば。
ああ、もうすこしお金があれば。

今日はこの話です。

昨日の話の続きになるかもしれません。

もう少し時間があれば勉強できるのに、と言っている人は「少しだけの時間」ができても勉強を始めません
もう少しお金があれば勉強できるのに、と言っている人は「少しのお金」が入っても勉強を始めません。

嘘つきなのか、それとも度胸がないのか。

チャンスがあれば成功できるのに、といっている大人も同じです。チャンスなんて降っているのに見えていない。いや、見ようとしない。もっと言えばチャンスから敢えて目をそらしている。

そういう大人はなぜチャンスから目をそらすのか。


その理由とは、
準備ができていない。準備をしようとしない。そんな感じ。
準備しておくのがおっくう、という感じでしょうか。

では、何故準備をしないのか。いつお金ができても、いつ時間ができても、そしていつチャンスが降ってきてもすぐに対応できるようになぜ準備しないのか。だって、お金や時間やチャンス「さえ」あればできるのにと言っていたではないか。
障害が取り除かれるのを切望していたのではなかったのか。何故、その時のための準備ができていないのか。何故、すぐに動かないのか。

それは、

今動かないという生活に「慣れてしまって」いるからです。もっと言えば、動かない生活を続けたほうが楽だからです。きつい言い方をお許しください。
「そんなことはない。あなたは今の私の状況を知らないからそんなことを言うのだ」とおっしゃりたいでしょう。

お金や時間がなくても成功した人の話を持ち出して、彼に比べたらあなたなんてまだましな方だ、まだまだやれるのではないか、などと言いたいのではありません。だって、人はそれぞれ具体的状況は異なるから比較のしようがないから。それに状況がほとんど同じだとしても、個人の能力にはあまりにも大きな差があるのだから。

だから他人との比較には意味がありません。(あ! 人は他人との比較でしか幸せ感を得られない、と私は思っていますが今日はその話はしません。)

で、「慣れ」の話の続き。準備ができていない人の話。

「やりたいのに何かの障害があってできない状況」って結構楽なんですよね。

そう、部活の大事な試合の直前に深刻な怪我をしたとしましょう。
悔しくて情けないのですが、試合の緊張感からは解放されますよね。
負けられない試合に臨むときの足の震えからは解放されますよね。

自分を高める勉強には苦しみが伴います。そして、失敗が許されない入学試験や資格試験もあります。経済的理由その他でその勉強が許されない人は悔しくて仕方ないでしょう。でもね、「やりたくてもできない」という状況って「やらなくてもよい正当な理由がある」とも言えるのですよね。きつい言い方で御免なさい。私だから語れると思って勇気を振り絞って書いています。他ならぬこの私自身がそんな感じでしたから。
いつか勉強をしなくては。でも状況が許さないので「今日は」始められない、という日々を延々と積み重ねる毎日。希望もないけれど絶望というほどでもない。憂鬱なのに生ぬるく抜け出せない日々。不本意な状況なのに「安定」しちゃっている感じ。

こういう状況から抜け出すにはそうとうなエネルギーが必要なのです。

そのためにはほんの小さな一歩を踏み出すこと。
「そんな小さな一歩では意味がない」などと決して言わないように。また再び「楽で準備しない」日々に戻ってしまいます。「実行可能なレベル」までそのハードルを下げること。実行することそれ自体を目的とすること。実行レベルゼロだった人が、あまりにも小さいレベルとはいえ実行レベルプラスになるということは大きな進歩です。この程度では小さすぎて無意味だなどという「やらない理由」を言わないように。

ゼロレベルからの脱却し、プラスに転じたことこそ祝福されるべきなのです。
動けないから動かないのだという「楽な」状態かから、今の自分に動ける可能なレベルの行動をすること。ゼロからプラスに持ってゆくこと。「無」から「有」に転じること。

その日を境に心と体が動き始めます。なんか成功法則本のような言い方になってきましたかね。

今日はここまで。

連休明けには中学生も高校生もテストがあります。今日も沢山の塾生が自分との戦いをしてゆきました。長時間学習した生徒もいましたね。日々の積み重ねでしか結果を得られないということが分かっている生徒達です。
私も気の抜けない指導が続きました。

連休も終わったようです。齊藤塾前の国道も静かになりますね。





私が出会えない君へ

今日はこどもの日ですね。

こどもの日に子供の貧困についての話です。

私には語る資格があると思いますので。

私は一人で学習塾を経営しています。経営ということは、子供達に学習指導し、保護者の皆さんから月謝を頂いてそれで生活しています。一定の月謝を支払って下さる方だけをお客さんにしていることになります。経済的理由で通塾を見送っている人とは出会う機会がありません。当たり前ですが。

今日は、今までもそして今後も私と出会うことがないであろう君へのメッセージです。
経済的理由から、学習塾はおろか高校や大学への進学さえも諦めなければならないかもしれない君へ、貧困大先輩の私からのメッセージです。少しでも参考にして頂きたいと思って。

経済的理由で勉強を断念することくらい悔しいものはありません。おそらく君は、学生生活をしながら家の仕事を手伝ったり、時にはアルバイトで家計を助けたりしているのでしょう。そして、1年後あるいは2年後に迫った次の進学についても迷っていることでしょう。早く社会に出て、親を経済的に助けてやりたい、あるいは弟や妹の進学費用を捻出してやりたいなとど考えながら、日々つらい思いで過ごしていることでしょう。

一人一人事情が異なります。細かいことを何も知らない私が一方的に勝手なことを言っても、それが励ましになるどころかかえって落ち込ませることになるかもしれません。デリケートな問題であることは分かっているつもりです。

それでも、君に是非伝えたいこと。

それは、何とか何とか粘って学校を出て欲しい、ということ。つまり、進学して欲しいということです。そして、それは社会に出てから次のチャンスを狙うということではなくて、苦しいかもしれないけれど若い今のうちに勉強をしておいて欲しいということです。勿論、様々な理由で少し進学が遅れることがあるのは仕方ありません。でも、はやり早いに越したことはありません。

早く社会に出て、少しでも家計を助けたいという気持ちは尊いのですが、そこを我慢して欲しい。あと数年粘って欲しい。これが私からのお願いです。

何故こんなことを言うのか。それは私の見る限り、日本の社会は何度もやり直しがきく社会ではないからです。だいぶ遠回りしたが、他の人にはできない経験を沢山して人間の幅が広がったのだからよしとしよう、などとは言ってられない社会だと思うのです。私は平均的な大人と言うことが違うかもしれません。
君よりもずっと前に貧困を経験し、実際に遠回りしてみた私が言うのですから少し耳を傾けて欲しいのです。若いうちにいろいろやってみること、それ自体を否定なんてしません。勿論良いことに決まっています。自分から求めていろいろ挑戦することはどんどんやって欲しい。そうではなくて、進学の夢を諦めてやむなく社会に出るというような選択は、できるだけ避けて欲しいということ。どうにもならない場合でも、ちょっと先の伸ばしして近い将来きっと進学して欲しいということ。

皆が進学するときに、就職するとなると寂しい思いをするかもしれません。進学は楽しそうですし、同年代の人達と楽しい学生生活を送る、社会に出ることを先延ばしにしてエンジョイできるようにも見えます。でも、学生は勉強が仕事です。勉強自体は楽ではありません。

一旦社会に出てしまうと、学生モードに戻るのは簡単ではありません。社会人としての大人の付き合いがあります。周りの大半は学生に戻るつもりのない社会人ですから、君を駆け出し社会人とみなして鍛えてくれたりします。仕事でもプライベートでも。仕事は日々戦いです。特に慣れない仕事、自分に向いてないかもしれない仕事の場合にはつらさは倍増します。そんな生活をしているうちに2~3年くらいあっという間に過ぎます。脅かすようで悪いのですが、お酒を覚えたりして、社会人らしい生活に移行して行くと急速に学習能力は落ちると思います。戻ってこられなくなる危険性があるのです。

そう、「このままでいいかな」という気持ちとの戦いでもあるのですよ。そこそこ仕事がうまくゆき始めると職場の人も優しくしてくれるし、ご両親だってこのままで良いのではないか、せっかく始めた仕事だし、慣れてきたのだしなどと言いだします。それを振り切って学生生活に戻れるのか。学校というものには普通、入学試験があるのですが、平日は残業の毎日で休日は半日寝ているような生活を始めると、勉強をいつからやるのかというきっかけすらつかめなくなってきます。そして、また「このままでもよいかな」とか「今年1年はとりあえずこのままで行こう」などと考えるようになります。

仕事を続けるうちに当然責任あるポストに就くこともあります。また、自らの結婚の問題、ご両親が年を取ってくるという問題まで気になり出します。時間がたつにつれて学生に戻るチャンスからは遠さかってゆきます。勉強を諦めるのが最善の選択のように見えてきてしまいます。

日本では社会に出てから学生に戻るのは難しいのです。(公務員の方の大学院進学や留学は除きますよ。)

「鉄は熱いうちに打て」は本当です。私が21歳の頃はこの言葉が頭の中を常に巡っていました。19歳の脳みそと25歳の脳みそは全く異なります。

勝手なメッセージでごめんなさい。だいぶ脅かしてしまいました。君自身今現在も頑張っているのは良く分かっているつもりなのですが。君が今おかれている状況を知らずに一方的に語って不愉快な気持ちにさせてしまったかもしれません。でも、なんとか粘って欲しい。同級生と同じものが持てなくて寂しいかもしれません。華やかな生活の同級生と顔を合わせるのさえつらいかもしれません。食費にさえ事欠く生活をしてまでやるべき勉強って何だ、と思うかもしれません。学生たちのやっていることが陳腐で社会人のやっていることの方が重みがあると見えるかもしれまえせんが。

でも、学校は若いうちに出ておいて欲しいと思います。ここは日本ですから。

良い参考書の選び方

君にとって一番よい参考書や問題集は、今君の目の前にあるそれです。

学校指定のものだったり、塾指定のものだったりするそれです。

え? つまりどれでも良いってことですか?

そういう疑問が湧いてくるのは当然です。出回っている参考書や問題集はみな良いもので、基本的には大差がありません。とはいうものの、君達を直接指導している学校や塾の先生がその本を選ぶにはそれなりの理由があります。だから、それを「信じて」ください。書店に沢山の参考書や問題集が並んでいます。目移りしてしまいますよね。タイトルも目を惹くものばかり。
でも、皆さんは最低限学校や塾のワークはこなさねばなりません。それらもやってさらに他の参考書に取り組める人はあまり多くはないのです。長年受験生を指導してきて断言できます。トップ校に合格している生徒の使用している参考書や問題集は驚くほど少ないのです。

受かっている人はその少ない参考書や問題集を「反復」しています。最低3回。5回以上の人もいます。反復することで、その本の隅々まで君のものになります。売れている書物を書いている人は皆プロ中のプロです。だから、その1冊に頼ることに不安を持つ必要はありません。経験の浅い君達が参考書類を評価することは危険です。選んでもらった本を信じましょう。そして、それ以外の参考書や問題集を片づけてしまいましょう。目移りしないために。

受かっている人は反復しています。失敗している人は1回目も終わらずに受験の日を迎えます。
受かる人は「この参考書を3サイクルやりました」などと答えられます。答えが明確です。
失敗する人は「いろいろやりましたけど」などと自信なさげに口ごもります。答えが曖昧です。

反復した人は「この参考書以外から出題されたらしかたない」と腹がすわっています。
だから受かる。
反復していない人は「どの参考書の問題の類題が出題されるだろう」などと目移りばかりしています。そして、どの参考書にも載っているような基本問題で失敗する。

トップ校に合格した生徒でさえ、5月のこの時期には基本部分で穴のある生徒が少なくありませんでした。基本でも完璧にするのはたやすいことではありません。

前高、前女、高高、高女のようなトップ校に合格するのは天才的な生徒達ではありません。また、何か特別の勉強方法を確立した人でもありません。誰もが持っている参考書や問題集を信じて反復できる人です。

トップ校に合格するような生徒は今日私が力説しているようなことが腹の底から分かって実行できます。言われる前から実行している人もいます。今日書いたようなことを塾生に習慣として実行させることが塾の最大の仕事かもしれません。学校で日々新しいことを学び、部活、生徒会、行事などをこなしながらキチンと参考書や問題集の反復を習慣づけるのは簡単ではありません。だから、その習慣づけの後押しをするために齊藤塾のような自立型学習塾があるのです。

今日は珍しく齊藤塾は塾長の私が終日不在でした。でも、朝から多くの塾生が学習に来ていましたね。連休明けすぐにあるテストのために塾で集中して学習していました。学習しかできない環境に自分を放り込むことで期待以上に学習ははかどります。

最近、休日が異常に増えて私は楽になりました。「お休みなのに勉強している」「お休みなのに塾をやっている」と言われているのではないかという不安やうしろめたさ(?)が少なくなりましたので。休日に働いている人も沢山います。自由が良いですよね。

今日の水芭蕉



水芭蕉がいよいよ凄いことになってきました。
1枚の葉の幅が25㎝、長さが30㎝くらいですね。

知らなければ何の葉っぱだか分かりませんよね。

最近暖かいので一気に大きくなりました。

この池には大雨の時に上流から土砂が流れ込み、溜まってゆきます。毎年この時期に池の底をさらって金魚が泳ぐスペースを広げてやります。昨日、泥をどかしていたらオケラが出てきました。オケラなんて見たのは何年ぶりだろう。子供の頃、庭に水を流すとオケラが慌てて走り出てきたものでした。

そういえば、子供の頃アリジゴクによく餌やりをしました。なんてことはない、アリジゴクのすり鉢状の穴に蟻を入れてやるだけのこと。今思えば何と残酷なことを。
でも、アリジゴクにとっては通常の食事ともいえますが。
昔は虫たちが子供のおもちゃでしたね。

今日はお通夜の手伝いをさせてもらいました。

88歳で亡くなった方のお通夜。
私が塾を開くきっかけを作ってくれた方。
お孫さん二人は齊藤塾の元塾生。もうとっくに成人して立派になっています。

成人したお孫さんたち、そしてお清めの席ではしゃぐひ孫ちゃんたち。
しっかり命が受け継がれたのを見届けて旅立たれたのでしょうね。

通夜や告別式後のお清めの席で、故人のお孫さんやひ孫さん達がはしゃぐ姿をよく見かけます。命が受け継がれ、未来のある小さなお子さん達がここにいる。亡くなった方の人生があったから、お子さん達がいてお孫さん達がいてひ孫さん達がいる。

大人達も、仕事があろうと何があろうとこういう時には集まります。何十年も会っていなかった人との再会。自己紹介から始まる再開。「私〇〇です。〇〇ちゃんですか」なんて挨拶があちらこちらで。

亡くなった方が引き合わせてくれた再開。普段は海外で活躍している息子さんやお孫さんまで田舎の小さな斎場に集う。亡くなった方の人生の営みがあってここに集った人々の人生も今ある。

子供の頃からよく知っている方が亡くなるのはそれは寂しいこと。

でも、何だか温かい気持ちになったお通夜。

「必ず儲かる投資術」のご紹介。

世の中にあふれている投資術と違い、私の紹介する投資術は必ず儲かります。

その投資術とは。

「勉強」

勉強は成功する確率の極めて高い「自分に対する投資」です。

世の中には楽をして儲けたい人は沢山います。そして、そのような人をお客さんにしている商売も数限りない。楽をして儲けたい人達が集中すれば競争率は高まり、結果儲けられる確率も下がる。楽して儲けたい人が沢山いるので、その結果楽して儲けられないという皮肉。まあ、ちょっと考えれば分かること。自分だけが一人で儲かる方法なんてないのです。

ところが勉強という投資は違います。

勉強はリターンが見込める「勝てる確率の高い投資」です。なぜ、勝てる確率が高いと言い切れるかというと「楽して」は勝てないからです。「楽して」の要素がなくなると競争相手は激減します。

一般的な投資は頭も使いますが、運も大きく作用します。それに対して勉強はほとんど運は作用しません。努力がそのまま結果となって表れてきます。「損をしない」投資なのです。
それなのに何故皆がこの「投資」に殺到しないか。「努力がそのまま結果となって表れる」つまり「未来が読める」投資なのに。理由は簡単。努力しなくてはならないからです。「楽して」リターンを得られる可能性がないからです。

人間の行動は不思議です。人間は、継続を長年積み重ねれば手に入る確率が高いものは求めないのです。人間が殺到するのは、うまくすれば楽して手に入るがその確率が非常に低いものです。継続時間の長さに耐えられないのか。宙ぶらりんの状態が嫌いなのか。うまくいった時の陶酔感が欲しいのか。

努力とは継続のことです。人はこの継続が苦手です。

大学時代に学生有志主催の勉強会に参加しました。
ルソーの『エミール』についての勉強会。
初回は10人ほど参加。第2回は5人。第3回は2人で、集まってそのまま散会。

塾関係の勉強会も同じ。
国語指導の勉強会。
初回は13人参加。第2回はなんと3人。第3回は延期。そのまま消滅。

いずれも最後(?)まで参加した私だから継続できた人数が分かるのです。

学生やプロの塾人だってそんなもんです。これが現実。

学校や塾は継続装置としての役目もあります。
ひとりでは「継続」できない。すなわち、「努力」ができない。

一人では継続できない例はいくらでありますが、例えば通信教育。あるいは通信添削。
「いつでも学べる」というのは利点のはずなのですが。勉強を後回しにできてしまうので続かない。

だからこそ、勉強は継続した人の一人勝ちになるのです。

もう一つ例をあげましょうか。

予備校。私が語れるのは昔の大手予備校のお話。

ある曜日のある講座。4月第1週は満席。第2週もほぼ満席。ところが、第3週に雨が降る。定員300人の教室が30人分ほど空く。予備校の授業に天気なんて無関係でしょうよ。しかも、決意も新たに入学した予備校のまだ4月段階での話ですよ。それなのに、雨が降ると生徒が来なくなるのです。その雨の週がきっかけとなり、二度と満席になることはないのです。空席は徐々に大きくなってゆきます。私はその現象を3年も見続けたのです。そんなもんです。

だから、勉強を習慣づけてできる人は一人勝ちなんです。楽勝です。

競争なんてないんです。

習慣として勉強をしているだけで、いつの間にか周りが消えてゆくのです。
『エミール』や「国語指導勉強会」や大手予備校のように。

競争のない投資。継続するだけで勝てる投資。それが勉強。
楽しては勝てないが、継続するだけで競争相手が自然に消えてゆく投資。それが勉強。

私は毎日そんなことを考えて指導しています。
継続システムとしての齊藤塾。
だから一人勝ちシステム。


プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

【遠方の方も吾妻線を利用して、土日、祝日中心に通っている塾です。長時間の個別演習形式で鍛えて結果を出しています。お気軽にお問い合わせください。】

合格実績(2012年~2020年までの合計)前橋高校4名、前橋女子高校8名、高崎高校5名、高崎女子高校7名、群馬高専5名、渋川高校20名、渋川女子高校17名、高経附高校3名、前橋育英S4名(中学受験については初年度からの合計で中央中等8名、佐久長聖中8名それぞれ合格、大学受験については、群馬大、埼玉大、茨城大、信州大、新潟大、静岡大、早稲田大、慶応大、津田塾大、東京女子大、明治大、法政大、成城大、東洋大、獨協大等多数合格・詳細は下のホームページからどうぞ)

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