個性を捨てろ

一見過激なタイトルにしてみた。

今日は小学校の授業参観をしてきた。最近の授業参観は児童達の発表時間があてられることが多い。幼稚園の保育参観ですらそうだ。新しい指導要領ではプレゼン重視の教育への転換がうたわれていたように記憶している。まあ、その流れなんでしょう。学校教育で自分の考えを皆の前で発表することの比重が大きくなってきていることは確かだ。この教育の成果は評価が難しいだろう。

一方で発表形式のようなアウトプットを重視する。他方で学力低下を食い止めるために演習の時間も多く取りたい。「相矛盾するものではない。両立は可能だ」と言いのだろうが、どうなんだろう。

見えないもので人を評価する時代になるのだろうか。大学入試も大きく変えるようだし。

さて、今日は個性の話。

個性はアピールするものではない。にじみ出るものだ。

個性重視の教育、一芸入試の導入、アピールポイントの自覚、プレゼン能力を磨け・・まあいろいろあったけれど。
今多くの生徒達の関心の流れはどちらに向いているのかは明らかだ。
低学年のうちから、英検、漢検、数検、そのあとTOEICや資格試験などへと関心が移って行くのが実情だ。

あれ?個性の時代じゃあないの?

個性で飯は食えない。勿論、芸術家のような人達はいる。でも、芸術で飯を食ってゆくのは楽ではないことは誰でも知っている。だから、私にはこんな個性がありますといくらアピールしても、大概はそれがなんだということになる。当たり前だ。
個性をアピールする前に、そもそも君は何ができるのかねと聞かれることを皆知っている。

齊藤塾で働かせて欲しいという人から電話をもらったことがある。募集などしていないのに。むげに断るのもどうかと思って、仮に働いてもらうとするとこんな業務になりますができますかと聞くと、それはできないが私はこんなことなら得意だと言い出し、そして語り始めた。それは齊藤塾の業務の範疇ではないので、それではこんなことならやってもらえますかと別の話を向けると、それもできないがこっちの分野なら得意だと来る。話にならかった。
勿論、こんなことを言っている人はどんな職場も務まらない。

仕事とは「すでに出来上がっている社会システム」の小さな歯車の一つとなって、責任を果たすことを言う。そのためには期待されていることがこなせなければならない。期待されていることはできないが、これなら得意だなどと繰り返す人が社会システムの担い手として責任ある仕事ができるとは到底思えない。そう、仕事には責任が伴うのだ。個性と責任という二つの言葉、この二つの距離は遠いように見える。

「私はこんな人です」などといくらアピールしても、あくまでそれは参考程度だ。大切なのは君にはどんな仕事ができるかだ。そのことの大半は「君にしかできないこと」ではなく「他の人でもできること」なんだ。他の人でもできることのクオリティーを上げて、他の誰かではなく君自身がその仕事を勝ち取るしか君が生きる道はない。

誰にでもできることのクオリティーを上げること。仕事の速さと正確さを上げること。これって受験勉強と同じではないか。受験勉強で期待されることと仕事で期待されることとはかなりの部分でダブるのだ。受験勉強なんて将来役に立たないという人がいるが、それは間違いだ。

「仕事がないなら、君自身が仕事を作り出せば良いではないか」などと言う人もいる。IT関係を中心に、過去にはなかった仕事を作り出して活躍している人達は沢山いる。ベンチャーの時代だと言われている。NPOに飛び込む人も多いと聞く。彼等の豊かな発想力で新しい仕事を生み出すその勢いには敬服する。数少ない成功者だからこそその勇気とエネルギーを称えたい。

だが、大半の人は今現在ある仕事、今現在ある会社を選択することになる。その時に君に期待されているのは君の個性ではない。一定以上の仕事のクオリティーだ。正確さや速さだ。

「個性の時代」に自分探しをしてきた人達の多くが、今働きながら資格取得を目指している。どうやら、自分が誰かわかる前にまず生活をしなければならなくなったようだ。彼等を笑っているのではない。塾業界の人の大半が紆余曲折の末今の仕事のたどりついている。私は大学3年時にはほぼ決めていたので早い方だろう。人生、そんなにうまくはゆかない。彼等を笑っているのではない。むしろ、気づいてやり直そうとしているその勇気を称えたい。応援したい。もっと言えば、彼等の頑張りからエネルギーをもらっている。

出来上がった社会システムに受け入れていただくために今の勉強はある。自分はこんな人です、とアピールする前に社会システムの小さな歯車になること。誰にでもできる仕事をそのクオリティーにおいて他者を凌駕し君が仕事を勝ち取ること。そうやってこれから君は生きてゆく。好むと好まざるとにかかわらず。
プレゼンも不得意よりは得意な方がよいでしょうがね。

子供がしびれる話とは

スポーツ選手が金メダルを取ると、必ずその選手の小学校の卒業作文が披露される。そこには、必ずと言って良いほど「将来はオリンピック選手になって金メダルを取る」とちゃんと書いてある。具体的な目標を立て、常にそれから目をそらさずに日々の練習に打ち込むことで、夢は現実となる。

「だから君だって・・・」などと子供に言う親は無責任だと思う。どこが無責任か。だって、そう言っている親のほぼ全員が小6時点での自分の夢を実現していないから。小さな会社に勤めるお父さんが小6時点で「ボクはこの会社に勤めて、会社ために尽くしたい」などという「夢」を語っていた例はまれだろう。小さな会社に勤めることそれ自体は素晴らしいことだが、子供時代の夢の実現の結果ではないはずだ。

「親が子供にメダリストの話くらいはしたって良いだろう。夢を持つことが子供の特権なんだから」

そうだろうか。
確かに、夢を持つことは子供の特権かもしれない。だが、成功者と同じような夢を持つことを子供に促すのは親の特権だろうか。

「お父さんはだめだったけれど、オマエは本田選手のように夢の実現のために・・・」という言い方にどれほどの意味があるのだろうか。子供がどんな気持ちで聞いているか想像した上で語っているだろうか。安易に有名人の例を持ち出して、オマエもこの人と同じとは言わないまでも、その半分くらいはできるのではないか、という言い方を子供はどう受け止めているのかに思いをはせて欲しい。本田選手本人が語るのではなく、「親のあなたが」本田選手のことを語ることの意味についてだ。

親がそういう話をすると、子供はちぢこまる。
子供は不快なプレッシャーとして受け止めることの方が多い。
親とすると「親の子供に対する期待」を伝えたかったとしてもだ。子供は不快な情報としてスルーする。子供に伝わらないだけでなく、子供が聞きたがらない話になっていたらそれはマイナスでしかない。

「いや、情報提供だよ」
いやいや、安易な情報提供だ。
安易すぎる。そして危険すぎる。

親が親になって家族を養っているという「絶対的優位」な立ち位置からの無責任な情報提供は、受け留める子供へのダメージが意外と大きいのだ。


夢は持つことにこそ意味があり、それが実現しなくても追い求める「過程」こそが大事なのだ、と言う大人も多いだろう。

夢は追い求める過程が大事だから実現しなくても良い。そうだろうか。そんな弱い追い求め方だから実現しないのではないか。金メダリストもサッカー日本代表選手も何度も挫折しそうになっても、自分を信じる強い気持ちがあったからこそ夢を自分のものにできたのではないのか。一人一人例を挙げる必要はない。全員苦しい時期を何度も乗り越えてきている。
実現しなくても良い、過程が大事だと思いながら続ける夢の追及ってそもそも何だ。まじめに聞いている子供だったら混乱するだけだ。

子供は次のような時には絶対に親には勝てない。

それは親から「既に出来上がった過去」についてのストーリーを聞かされた時だ。
親から、昔はこうだったとかお母さんはそうじゃなかったという話をされた時に子供は反論できない。だって、その時に子供は生きていなかったのだから。親はそのことを知っていて「既に出来上がった動かしがたい事実(過去)」についてのストーリーを(たぶん無意識的に)巧みに作り上げる。主に自分の都合の良いように筋立てして。聞いている子供はその作為を鋭く見抜くから、親の話をちゃんと聞かない。自分のことを棚に上げて話す人の話は聞いても無意味だからだ。自分の言葉で話していないから。だから、そんな話を聞いてもしかたない。

親がちゃんと話さないから、子供はちゃんと聞かない。

親の責任として、そういう話もしておかないと、というのも間違いだ。
親が子供に余計な話をしなくても子供は成功者には強い憧れを持っている。親が追い打ちをかけて「憧れを持て」などということ自体迷惑な話だ。何度も言うが「親が」子供にこの話を直接することの意味について語っている。「他人」ではなく「親」が。学校の先生や塾長が話すのとはその意味合いが全く異なってくる。

子供は親の言葉をプレッシャーとして受け止める。だからちぢこまる。
伝わらないだけではないのだ。
親の言葉はそのくらい重い。だから、聞けないのだ。だから、作った話では悲しい。

「プレッシャーをかけないとうちの子は動かないから」という親も多い。本当にそうだろうか。
プレッシャーをかけるためにあえてする話とは何なんだ。

過去についての情報量において圧倒的に有利に立っている親の方が、自分に都合の良い情報だけをつなぎ合わせてストーリーを作ったり、既に結果が出ている有名人の成功物語をその結果から過去にさかのぼってストーリーを作ったりする。そのことの作為を子供達は簡単に見抜く。そして、そんなことを言っている大人の言葉の軽さに失望する。子供は親が考えるよりはるかにいろいろなことが見えている。だから嘘っぽい話をする大人を軽蔑する。「本物の」話を聞きたい時期にテレビで聞きかじった話を適当にされるとがっかりする。子供は親から本物の話を聞きたがっている。本物を渇望しているからこそ嘘は簡単に見抜く。

子供が渇望している話とは何だろう。

子供は親のあなたにしか語れないあなたの話を聞きたいんだ。
子供はそれを求めている。
例え、あなたの話が金メダリストの成功物語に比べて見劣りしたとしても、目の前にいる親のあなたにしか語れないことを語ることで、子供達は五感の全てであなたの話を受けとめその重さにシビれる。
決してスルーすることなどない。
あなたの話が小6時点での夢を実現してゆく成功物語でなかったとしても。

もうすぐ子供の日。そういえば母の日も近い。

単元テスト対策をする塾

吾妻の各中学校でもそろろろ単元テストが始まっている。新学期が始まって早くも1単元終わるのだ。単元テストは一般的にはドリル形式の確認テスト的な形態のものがほとんどだ。業者が作ったものを単元ごとに取り出してテストとしている先生が大半だ。実は、齊藤塾では各学校の進度に合わせて「単元テストの対策」をやっている。

私は「普通のことを普通にやることがトップ校合格への最短距離だ」と考えている。

だから、日々の塾での学習でも基本的に学校の進度に合わせて、今各学校で学習している内容の演習問題を大量に解いて、教科書内容を確実に自分のものにさせることを心掛けている。それが、前高、前女、高高、高女のようなトップ校合格への最短距離だからだ。そのことは長年にわたって塾での指導をしてきて自信を持って言える。

以前、勤務していた前橋の大手塾でも学校の進度に合わせて、確実に基本的な力をつけさせることで生徒数を増やしていた。そして、当時は前高、前女に合計120人ほどの合格者を出す随一の塾だった。基本重視の指導が結果に結びつくというのはプロの世界では常識だ。そういえば、若いころ勤務していた予備校のテキストも基本的内容を重視したしっかりしたものだった。

プロの指導者は基本を重視して決してぶれない。「こんな簡単なことしか教えてくれないのか」と批判されることを全く恐れない。入試ではテクニック的なことでは勝負が決まらず、基礎的かつ本質的は部分の確実な理解力が勝敗を分けることを知っているからだ。難問は解けなくても合格できるが、基礎的、本質的な問題を落としたら不合格になる。我々プロが恐れるのは、誤解に基づいた大人たちからの批判ではなない。一番恐れること。それは、勉強を甘く見た生徒が基礎基本をおろそかにして入試の本番で結果をだせないことだ。

結果は「今日、自分の目の前にある」内容を十分に自分のものにしてゆくことを日々積み重ねて行くことでしか得られない。その積み重ねでしか入試では勝てないのだ。積み重ねの道しるべとなるのが単元テストなのだ。「単元テストなんて成績に影響するのですか」と聞いてくるのは保護者だけではない。個人塾の塾長でも少なくない。私は単元テスト対策をやっている珍しい塾長だと思われているふしもある。トップ校へ毎年複数の合格者を出していることも認めてくれているのなら、この二つを結びつけて欲しいものだ。

特別なことをするのではなく、「普通のこと」「当たり前」のことを地道にやることだ。それがトップ校への合格を引き寄せる近道だということを納得できる生徒が集っているのが齊藤塾だ。

どんなに優秀な生徒でも習っていないことはできない。当たり前だ。知らないのだから。今、中学校でトップクラスの中3生は来年の今は県内トップクラスの高校で学習している可能性は高い。でも、それは「可能性」でしかない。高校入試範囲の3分の1以上は「これから学習する」のだから。

今日もある生徒が単元テストの結果を提出した。表が92点、裏が100点。昨日、提出した生徒の結果は表が100点、裏が93点。まあ、両面100点を取って欲しいところだが、まずまずの結果だろうか。ひとまずほっとした。人生で初めて習ったことをテストされてこの点数を取ったのだから称えてやりたい。

各中学校の先生が教えてくれている内容を確実に自分のものにすること。それがトップ校合格への唯一の道だ。学校の先生批判をする塾長がたまにいるが、それは間違いだ。学校と塾とは車の両輪。学校が期待している生徒の自宅学習部分をサポートし確実に結果に結びつけるために塾は存在している。生徒に、学校が期待しているあるいはそれ以上の到達をさせて学習の好循環を起こさせること、そして毎日毎日の学習を自分のものにさせること、そのために塾はある。

今年もゴールデンウィーク明けには単元テストが集中するだろう。気が抜けない。

吾妻から中学受験

2006年に初めて佐久長聖中合格者が出て以来、齊藤塾には毎年中学受験生がいる。今年までに、佐久長聖中6名、中央中等4名、秀明中2名、共愛中1名、樹徳中1名、かえつ有明中1名の合格者を出した。

山間の町から中学受験をする。このととが特異なことではなくなってきている。

何故中学受験をするのか。その理由については今日は触れない。地元中学以外の選択肢を考える保護者の方が増えつつあることだけは確かだ。中高一貫校に対する期待の大きさもうかがえる。

今日は私が今まで中学受験生を指導してきて、吾妻から上記のような中学を受験する際の学習方法に絞って気づいたことを書こうと思う。

中学入試といっても、首都圏の難関校と違って上記のような中学を受験する場合には小学校の学習内容から大きく踏み出す必要はない。小学校の教科書内容を完璧にしたうえで、やや難しい問題を単元ごとにつぶして行くという学習方法で準備するのが間違いのないやり方である。中学校側も間違いなくそのことを期待している。まずはベースになる教科書内容の理解を繰り返し確認することが大切だ。大人と違って小学生は覚えるのも早いが忘れるのも早いという特徴がある。したがって、時々復習を取り入れて確認作業をしてゆくことがカギとなる。中学受験をする児童はもちろん優秀なのだが、まだまだ幼いことろもある(特に男子)。塾が学習の流れを作ってやり取りこぼしのないようにすることはどうしても必要になる。いくら自立型学習塾だからといって児童任せにするようなことはできない。

算数につてはどこの中学でも(中央中等でも)計算力がないと合格しない。この計算力は小学校の宿題ドリルをやったくらいでは身につかない。従って、塾のプリントやワークを用いて弱点を見つけ、弱いところを中心に反復学習することになる。求められているのは「正確な計算力」だ。計算スピードも必要だが、時間内に解けないほど大量に難問を出題する中学校はない。したがって、確実でしっかりした計算力を身につけることが大切になってくる。

言うまでもないことだが、小学校の単元テストで100点を取れるだけの計算力以上の力が求められているのは当たり前のことだ。では、何か特別な難問集で練習する必要があるかというとそれも違う。単元テスト問題の「ちょっと上レベル」の問題集で十分だ。イメージで恐縮だが3割から4割程度の難しさとでも言おうか。ちょっとだけ難しい問題を「確実」に解ける力が求められている。各学校の入試担当の先生方が口を揃えておっしゃること、それは「小学校内容の基礎を確実に身につけさせておいてください」だ。中学入学後の授業について行ける基礎学力を見るのが入試だからだ。ただ、中学受験でいう「基礎」とは一般的な意味での基礎よりは難しいというだけだ。どこから手を付けたらよいか分からないような難問を解ける必要など全くない。中学の先生方は「入学前に基礎ができていればあとは私達がやります」とおっしゃっているのだ。

だから、齊藤塾では各学校の入試問題の傾向を踏まえて確実に合格するレベルに照準を合わせて指導している。上位合格を狙うのではなく、確実に合格を勝ち取るという戦略だ。これは結果的に成功している。

齊藤塾でやっている中学受験指導をひとことで言うと、入試で取りこぼしをしないようにする指導、取れる問題を確実に取る指導だ。特別なことなどしていないともいえるが、一般の小学生は一度習ったことを復習する機会はほとんどないし、3割程度難しい問題を解くトレーニングもしないのだから、それらをやっているという意味では特別かもしれない。

この話は後日、もう少し付け足します。算数以外の話もしたいので。

(齊藤塾では今日も朝8時過ぎから生徒が入室。複数の中高一貫生が6時間程度学習して行きました。中高一貫生は学校の課題が沢山出ているので自立学習し、質問をするという形態になっています。高校生も同じですね。今日も高校生は長時間学習して行きましたね。質問もありました。勉強する環境に自分を放り込むこと!)

ああ前期試験、AO入試

群馬県公立高校入試の前期試験はいましばらく継続されるだろう。

保護者の方から私が毎年のように聞かれることがある。それは、生徒会をやったら前期試験で有利になるのか、運動部に入部しないと前期試験で不利になるのではないか、行動の記録ではどのくらいA評価があったら前期で有利か、などだ。

ああ前期試験。

なんとも罪な制度だ。この制度が始まって何年たってもこのような質問がなされることにこそ、前期試験の意味がある。つまり、「見えない」からその「効果」を発揮する。憶測のおかげで中学生やその保護者は自己規制する。「できれば前期試験で受かりたい」と考えるのは受験生や保護者としては当然のこと。受験生にチャンスを二度与えているのだ、という説明も可能だ。前期試験で合格した生徒や保護者はこの制度を批判することはあまりないだろうし。

もっとも近い将来これはなくなる。来年はなくならない。今言えることはそれだけ。前期試験という青田買いシステムのために毎年多くの受験生とその保護者が振り回される。何故、こんな制度があるのか。私が思うに、前期試験導入に至った一番の理由は「他県でやっているから」だろう。きっとそうに聞かれれば、そんなことはないと答えるに決まっているが。(このブログは教育委員会の方はお読みではないだろうから、大胆に私見を述べます。)やはり不平等な制度だと思う。

大学入試のAO入試や推薦入試は(実質的にはこの二つは同じ)は青田買いにより入学者を確保しておき、一般試験の倍率を意図的に上げることで各大学の偏差値維持を目論んでいる。大学関係者の方々は、実は代ゼミ、駿台、河合塾が発表している偏差値にとても敏感だ。受験産業による勝手な評価など視野に入っていないふりをしながら、実際は偏差値の推移に一喜一憂している。それはそうだ。偏差値がその大学の「評価」になるのだから。経営に直結するのだ。就職率以上に影響するかもしれない。

公立高校前期試験も同様な「効果」を発揮する。前期試験で入学者を一定数確保することで、後期試験の倍率は上がってしまう。これは意図的に「上げて」いるのだ。倍率の高い学校は「人気のある」学校ということになる。だから、受験生の期待に反して、高校側は倍率が高くなることを期待している。

前期試験の目的。表向きは「多様な入試によって多様で個性的な生徒を取りたい」ということになっている。では、近い将来に前期試験をやめたときには何と説明するのだろうか。もう多様で個性的な生徒はいらなくなったなどとは言うはずはない。(誰も突っ込まないから心配はいらないのでしょうね。)前期試験は一定の役割を果たして来たが時代の流れに合わなくなってムニャムニャムニャムニャ・・・従って!新しい制度を導入するのでありまする!!・・かな。何故か結論のところだけ声がでかい。そう言えば、1月後半に推薦で合格者を出していた時代には、「能力のある生徒は早めに合格を確保してやって、受験勉強から解放してやって中身のある勉強に時間を割いてもらいたい」旨のことを言っていた。何と、自らの入試制度を否定するともとれる「説明」をしていたのだ。
この前期試験。ここのところ「他県でやっている」とは言えなくなってきている。他県での入試一本化だ。群馬もやめどきが近いことは確かだ。

一部の高校(特に高崎地区の高校で顕著)ではまだ前期試験の効果は続いているが、そろそろ後期試験でも倍率が1倍を切る高校が多くなってきた。また制度をいじる時期が近付いている。実際、制度を考えておられる方々の苦労が分からないわけでもない。これほどの少子化に対応するのは大変だろう。私立高校の生徒数確保との兼ね合いもあるし。

高高では前期試験で合格した生徒の成績が後記試験で合格した生徒よりも低いということはないと強調していた。事実そうなのだろう。では、「多様」の問題はどうなのだろう。これも、多様になったと言えば良いだけなのだからなんとも言えない。いくつか個性的な生徒の例でも挙げれば済む話になる。

なんともまとまらない記事になった。ブログだからまとまりはどうでも良いのかな。
制度批判というより愚痴っぽくなってしまった。高校や中学の先生は表向きは制度批判はできないでしょうから、自由人の私が代りに批判しました。

おっと、最初の質問に対する私の答えですね。「前期試験のために」部活や生徒会をやるのはナンセンスだと答えている。やりたければやれば良い。自由だ。部活で関東大会以上の成績を残した人は前期で有利でしょう。でも、それを入試で使うために気の進まない部活をやるというのはおかしな話だ。あくまで自由。そんなことを考えるより、5教科の合計点を50点上げることを考えた方が良い。今の高校は優秀な生徒を「欲しくて欲しくてたまらない」のだから。前期試験を気にしすぎて、優先順位を誤らないように。


(中学校では単元テストがぼちぼち始まっているようだ。岩島中、高山中、原町中の生徒は予定を変更して数学、社会、理科等の単元テスト対策を行った。単元テストとはいえテストがあるときにはその範囲を集中的に学習したいものだ。一人塾長指導の齊藤塾のメリットを最大限に生かしたい。部活の試合がある生徒は予定を変更して通塾している。昨日も今日も予定を別の日に変更した人、別の日の予定を今日に振り向けた人など様々だった。回数の確保さえしてもらえれば私は責任を持って指導する。

だらだらと長いブログを毎日書いている暇な塾長だと誤解しないでいただきたい。今日も午前8時半には最初の生徒が入室して、午後9時半に最後の生徒が退室した。その間、一人一人に指導している。だから、更新が遅くなることもある。あしからず。)

群馬から国立大医学部

群馬大学医学部(医学科)の合格者数は、前高(12名)、高高(8名)、太田(4名)、高女(4名)、樹徳(4名)、前女(4名)でした。太田、高女の名前がこのへんで出てきますね。樹徳もさすがです。前女は秋田大に4名、山形大に3名合格しています。地方大学の医学部に確実に合格するという戦略だったようです。前高も筑波大に2名合格です。中央中等は自治医大に2名ですから本当に強い学校です。高高は東北大薬学部に3名、前高は東北大薬学部と、金沢大薬学部に2名ずつ合格ですからこれもさすがですね。近県では佐久長聖高校が信州大医学部に4名合格しています。やはり、ここも東大から医学部狙いに変化しているようですね。来月訪問していろいろ質問してきます。

最近4年間の国立大医学部合格者数を見ると、前高が24名~35名、前女が10名~14名、高高が9名~12名です。これに中央中等が割って入り、太田、高女、樹徳あたりが続いています。群馬県内で国立大学医学部(医学科)に行きたい人はどの高校を目指せばよいかは明白ですね。各々の高校でどのあたりの順位にいれば国立大医学部に合格できるかも見えますね。


(今朝も、大学生のお父さんから嬉しいメールを頂きました。本人希望の学部、学科に合格できたことで、将来の夢に向かって毎日遅くまで勉学に励んでいるとのことです。齊藤塾の卒塾生らしく粘り強くやってくれているようです。楽しみですね。嬉しくなりました。学問の厳しさに直面した時でも粘り強く乗り越えていって欲しいと思います。)

ダイエットと勉強

ダイエットと勉強は似ています。

ダイエットなんて簡単です。食べる量を減らして運動量を増やせば良いのです。

人間は、その遺伝子の中に深刻な飢餓を乗り越えて生き伸びた情報が蓄積されているために、飢餓には強いが飽食には対応できないのです。でも、体から飢餓の不安を取り除いてやって安心感を与えてやると、体は徐々にその不安から解放されて「おっかなびっくり」ですが脂肪を燃やし始めるようです。急激に食事を減らすと、体の方が「飢餓の危機だ!」と感じて少しでも生き延びるためのシステムが起動し、脂肪を燃やすなどというもったいないことは最後の最後にとっておこうとします。でも、徐々にだましだまし体に安心感を与えながら食事を減らして行けば、体はついてきてくれるのです。体を慣らしながらゆっくりと前に進み、時々体がついてきてくれるか振り返りながらやればうまくゆきます。たぶん潜在意識の部分の変化が起きている思うのですが。以上は私の考えた神話です。神話ですが、複雑な理論を理解するよりも腹に落ちる話ではなかったかと思います。神話の多くは真実を語っていると思います。真実を簡単に話そうとすると神話になる思います。

言うまでもなく、ダイエットは結果を焦ると失敗します。「体を変える」という大仕事をするのに、「夏までに5キロは痩せないと困る」というような発想から出発するので失敗するのです。体を変えるということを軽く考え過ぎている弊害です。

ここで厄介なのが、巷にあふれる〇〇ダイエット法たちです。それぞれに女優などを使って巧みにアピールして来るので、「これは本物かもしれない」と思って試してしまうのです。(「引っかかってしまう」という表現はあえて避けます。業界の方々と、試した方々の努力に敬意を表して。両者ともまじめな人たちも多いので。)そして失敗の山を積み重ねることになります。
「楽して簡単に痩せる」は全て間違いです。聞き流すだけで〇〇・・・、と同じ。楽な道があったら日本人皆痩せているはずです。そうなっていない「事実」がすべてを物語っています。
それなのに、どこかに楽な道があって今まで自分が知らなかっただけだと思ってしまう。また、〇〇大学の〇〇研究所で新しく開発した〇〇法は今までいなかった画期的な方法だ、などといううたい文句にころりとなってしまって「もし本当だったら、やらなかったことを後悔する」と自分を納得させ一種の「挑戦」のつもりで大金をつぎ込んでしまったりします。
楽な道を求めた結果、無駄な時間と無駄なお金を使ってしまう。高すぎる「授業料」を払うといういつものパターン。

もう一度確認します。何故、失敗して高い「授業料」を払ったか。
それは、「短期間に、楽をして結果を出そうとしたから」です。

お分かりですよね。つまり、成功するにはその逆をやれば良いのです。長期間に渡って苦しいことを続けることです。で、これは普通の人にはなかなかできないのです。だから「誘惑」の入り込む余地が出てくる。まず、「時間がかかる」ということは避けては通れません。何年もかけて蓄積したものを、一気に減らすことなんてもともと無理なのです。借金と同じですよね。借金はコツコツ返済するのが正しいやりかたです。9回裏ツーアウト満塁、4点差で負けていてたら、こつこつ1点ずつ返すのが正しい。満塁ホームランを狙うと三振してゲームセット。

「長期間で苦しい」と書きましたが、徐々に体質が変わってくるのでその苦しみもそれほどではなくなってくるのです。一歩一歩着実に階段を降りる感じ。一歩一歩なのにあとから結果を見るとだいぶ降りている。継続のすごさ。

そうすると一番苦しいのはいつだったでしょう。

そうです。一番最初なのです。いつも言うように何もやっていない状態から初めの一歩を踏み出すその瞬間。「無」から「有」に変わるその瞬間。だから、最初の一歩は呆れるほど小さな一歩でなくてはならないのです。

それなのに多くの人は「こんなことでは3か月後に間に合わない」といって最初に無理をする。わざわざ苦しいやり方を選択して失敗する。そして、「自分は根性がない」などと言って自分を責めたり、しょせん無理なことよといって悟ってみせたり、皆失敗してるじゃあないかといって自分を慰めてみたりします。

それも自由ではありますが、私に言わせれば「欲の深さ」が災いした結果です。もっと言っちゃえばワガママ。「本気度」が足りない。好き放題食べて肥った(=ワガママ)ものを、短期間で痩せたい(=ワガママ)と言って無理をしているのです。つまり、人間が全く変わっていない。つまり、反省していない。ワガママな人は楽な道を選択したつもりが一番苦しい道を結果的に選んでいる。そして、失敗する。

最初の一歩は呆れるほど小さくて良いのです。むしろ、その「一歩のあまりの小ささに耐える」感じでしょうか。

本当は勉強の話につなげる予定だったのですが、長くなってきたので後で後半を書きます。


(卒塾生のお父さんから嬉しいメールを頂きました。今春高校に合格し、遠方への通学のために齊藤塾を卒塾した生徒のお父さんが、お子さんが毎日机に向かう姿勢をご覧になって、勉強の習慣力、勉強体力がついたのは齊藤塾のおかげだ、「齊藤塾の底力」を感じた、とおっしゃってくださいました。私にとってこんな嬉しいことはありません。私がこだわって続けてきたことが間違いでなかったことが確認できました。感謝します。これからも自信をもって、齊藤塾のやりかたをブレずに積み重ねます。)

前橋高校は国立大医学部でした

前高生は東大ではなく国立大学の医学部(医学科)に合格していました。

前高の国立大学医学部合格者・・・24名

前高の復活を期待するなどという「失礼な」記事を書いたことを反省します。東大、京大、早慶の合格者数だけを見て全体的に今年の前高生は振るわなかったと勝手に判断してしまいました。前高関係者の方々にお詫びいたします。前高の先生方、生徒さんたちの努力の結晶が24名という数字となって表れています。ひとりひとりの合格にはドラマがあったはずです。苦しい苦しいドラマが。その積み重ねが24名という数字となって表れているのです。外から勝手なことを言うのは失礼でした。常に注目を浴びている前高、高高、前女、高女の先生方の苦労たるやいかばかりか。もちろん、生徒達皆「努力の天才達」であることは言うまでもありません。

以前、前高を訪問したときに1年生の段階では3人に1人が医学部を志望していると聞きました。今でも変わらないのでしょうね。そういえば、高高の校長先生も「高高よりも前高の方がはるかに医学部志望の生徒が多い。高高生は医学部を志望する人がそもそも前高よりも圧倒的に少ないのだから合格者も少ない」とおっしゃっていました。前高生の中にはお医者さんの息子さん達も多いようですし。

国立大学医学部に強い前高、ということで決着しました。

ちなみに国立大学医学部(医学科)合格者数だけ見ると、前女が13名、高高は12名です。前女もさすがですよね。高校入試時点での高崎地区の志願倍率ばかりに目が行きがちですが、はやり前高も前女も優秀な学校です。当たりまえですよね。

ここのところ、東大志望から国立大学医学部志望へと優秀な受験生が流れている傾向にあるようです。時代を反映していますよね。まあ、東大を出ても将来の仕事まで保証されているわけではありませんからね。地方大学であろうと、国立大学医学部なら将来も保証されているし、プライドも保てるし、周りも評価してくれる。医学部志向が強まると、優秀だというだけで入学する学生がいて「合わなくて退学する」というケースもよくあるようです。一部、我々の業界に流れてきますね。

東大医学部出身のアナウンサーとかいましたね。司法試験合格後、国立大学医学部に入りなおして医師免許もとって結局参議院議員をされている「優秀な」議員さんも確かいました。(あ!議員さんは皆優秀でしたね。またまた失礼。)ハーバード大学医学部を出てピアニストになったのは誰でしたっけ。

某数学雑誌で時々載っている話題ですが、数学者を目指して競って勉強している有名進学高校生達の中には、当然のように東大の数学科に進学する生徒が出ます。ところが途中で志望を変えてしまう生徒もいるとか。志望変更した生徒について、研究者を目指す東大数学科生は次のように言っているとか。
「あいつは研究者を諦めて医学部に逃げた」

今思い出しましたが、某渋川高校にはむかしむかし医学部出身の生物の教師がいました。なぜか遺伝を教えるのが嫌いな先生で、遺伝の部分は生徒が自分で勉強してたっけ。

反省で始まり、どうでも良い話題で終わる今日の記事でした。

あるディベート女子の失敗

群馬県内のある女子高前期試験での話。

気の遠くなるほど昔の話、としておこう。

その高校の前期試験でディベートが実施された。

ある問題について是とする立場と非とする立場に強制的に分けられて、自分の立場が如何に正しいかを討論を通じて主張し、相手を論理で打ち負かすあのゲームだ。

試験後、ある受験生がある塾長に目を輝かせて報告に来た。
「先生! あたし受かるよ。相手を完膚なきまでに遣り込めたから。相手は下を向いてしまって、何も反論できなかったよ!」

で、結果は、

完膚なきまでに遣り込めた方は不合格で、完膚なきまでに遣り込められた方が合格した。
そんなものだ。
勿論、勝ったと思っていた生徒の議論は勢いだけで、論理が破綻していた可能性だってある。遣り込められた生徒は下を向きながらもちゃんと応戦し、その論理のキレが良かった可能性だってある。だから、本当のことは分からない。

でも、

「まあ、そんなもんだろうなあ」と妙に納得してしまうのは私だけだろうか。

「ざっくばらんに話そう」「忌憚なく話そう」「胸を割って話そう」「さくい話をしよう」(「さくい」は吾妻地方の方言かと思っていたのですが、ちゃんと辞書にありますね)・・・
大人社会でもこんな言い方がよくなされる。ということは、これらの前置きがないと、さっくばらんではなく、忌憚があって、胸を割らなくて、さくくない、のが日本人の自然な振る舞いだということなのだろうか。

このような日本社会にディベートがなじむかどうかについては甚だ疑わしい。「さあディベートをやりましょう」と言われて、それがたとえ入学試験であったとしても真に受けてはいけないのかもしれない。要注意だ。繰り返すが、前期試験事件で両者のどちらの論理が整っていたかは検証のしようがないので、あくまで日本社会の通例に照らし合わせた私の想像だ。

日本社会で上手に生き抜く操縦術を身につけるって大変だ。

じゃあ、上記のディベート女子はどのように振る舞うのが正しかったのだろうか。
適度に相手を追い詰める議論をすべきだったのか。追い詰めすぎず、かといって追い詰められもぜず。
そんなことって可能なのだろうか。
このような疑問を持たなくなったときに、初めて「オマエはケツが青い」と言われなくなるのかもしれない。

ところで、そのディベート女子。
後期試験には受かった。
やはり論理的思考力はあったようだ。

結局、彼女は高校入試合格と日本社会での振る舞い方との両方をゲットしたことになった。
お得な入試だったね。





退部は敗北か

部活を辞めることは敗北ではない。

自分に向いてないことを辞めて、自分の貴重な時間をもっと自分にふさわしいこと、やりたいことに振りむけることが敗北であるはずはない。

「一つのことを続けられない人は、他の何をやっても続かないだろう」

これもよく言われる。
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。

一つのことを始めたら必ず最後までやり遂げなければならないとしたら、始める前にそれが自分にふさわしいかどうかを完璧にチェックできなければならない。その部活が自分に向いているかどうかを、やる前から完璧にチェックしてからその部活に入部する。そんなことはできるはずはない。真剣にやってみて初めて自分に向くかどうかが見えてくるのだから。

いやそういうことを言いたいのではないのだろう。

多少自分に向いていないかもしれないが、「始めたからには最後までやり遂げること」そのこと自体に意味があるのだ、ということを言いたいのかもしれない。
それなら、少しは分かる。でも、そうすれば何かのきっかけで(見学に行ったら恰好いい先輩がいたとか、部活紹介のプレゼンが素敵だったとか)ある部活に入部したら、もうそれ以外の選択肢は完全に排除すべきだということになるのか。それもおかしな話だ。途中でもっとやりたいこと、自分にふさわしいことが見つかることはありうることだ。

部活は続けるもよし、途中で辞めるもよし、それは自由だ。

3年間最後まで続けた人が称賛され、途中で辞めた人は何をやっても続かない人の烙印を押されるようなことがあってはならない。

部活では勉強では学べない多くのことが学べる。リーダーシップ、人間関係の軋轢、友情、そして一生の友達。もしかしたら、自分にとっての掛け替えのない人。せっかく同世代の若者が同じ学び舎で学んでいるのだから、勉強以外で様々なかかわりあいを持たなければもったいない。その通りだ。学校の施設を利用でき、よい指導者もいて、対外試合や県大会という目標に向かって皆一つとなって頑張るという経験ができる。これは、勉強では得られないものだ。それも、その通りだ。

でも、それらを享受するかどうかの選択の自由は残されなければならないと強く思う。
辞められない不自由、部活を辞めたという烙印、辞めたとたんに漂い出す周りのよそよそしさ。
そんなものがあってはならない。続けるも挑戦、辞めるも挑戦だ。

言いたいことは一つ。

好きでもない部活を嫌々ながら「始めたからには」などと言いながら続ける時間がもったいないということ。部活をやらなければできたであろう読書や自分なりの趣味の追及などのチャンスを捨ててまでやる価値はあるのだろうかということ。

勉強だけに打ち込むことは恥ずかしいこと、という風潮もよくない。勉強だけやることのどこが「悪い」のだ。

特に高校生は大学受験の難しさは半端ではないことを胆に銘じて欲しい。同じ部活の先輩が良い大学に行ったからといって、君も同じことができるという保証は全くない。

「文武両道」

学校はこの言葉が好きだ。

学校の先生は勉強でも部活でも活躍する生徒が理想のようだ。
部活での教え子の活躍は先生仲間の中では羨望の対象になるようだ。

でも、君自身がその理想に付き合う必要などない。
部活以外にやりたいことがあったら思いっきりやってほしい。そのために部活が邪魔になったら、堂々と辞めればよい。

部活が非行対策として利用された歴史がある。この問題は避けては通れないが今日は触れない。

私がここまで丁寧に言っても、人によっては「でも、齊藤さん。部活って良いものですよ。私は部活をやって本当に良かったと思っています。部活でしか得られないものが沢山あるんですよね。ああ、やって良かった。齊藤さんはそうは思わないようですが」などと言ってくる人が現れる。そんなこと全然言ってないのに。言葉が伝わらない人は本当に困る。
プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

齊藤塾合格実績・・・前高、前女、高高、高女、高専、渋高、渋女、高経附、佐久長聖中、中央中等、樹徳中、埼玉大、新潟大、群馬大、静岡大、高等工科他

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