君の目には桜が映っていますか。

東京の桜は満開のようですね。

花の思い出を語りましょう。

私には忘れられない桜があります。高校卒業後4年目の4月、私は予備校の宿直室から世田谷のアパートに引っ越すことにしました。アパート近くの小さな電気屋さんで洗濯機と冷蔵庫を買って、店長が軽トラに載せ、その助手席に私は乗せてもらい、アパートまで移動するほんの5分程度の間に見たその町の桜です。ルームメイトのいない人生初めての一人暮らし。経済的不安。もうそろそろ何とかしなければいけない大学受験。「自分はどうなってしまうのだろう。」という出口の見えない不安のなかで見た世田谷区豪徳寺の桜です。私は、満開の桜をできるだけ見ないようにしていたかもしれません。
その1年後の桜を、私は大学1年生として前橋のキャンパスで見ることになります。

いま、君の目に満開の桜は映っていますか。

逃げ場のないほどいたる所に咲いている満開の桜。
その桜が目に入らないようにしている君がいるとしたら、あの時の私と同じです。
4月は残酷な月ですよね。
新入学、新入社員、新生活。
フレッシュな4月などと世の中では新鮮さ、新しさを盛んに強調していますよね。
乗り遅れている焦り、先の見えない不安、誰にもぶつけようのない不満。
そして、
繰り返し襲ってくる自己嫌悪。

桜の花を見たくない君へ。

今は耐えて耐えて、1ミリだけで良いから前に進んで欲しい。
今は我慢の時です。我慢して我慢してちょっとだけ前に進むことで心は落ち着きます。
その押しつぶされそうな孤独感も、神様が与えてくれた試練かもしれません。
耐えられる君だからこそ与えられた試練。



大学への夢を持ち続けて、東京生活4年目の4月に初めてのアパート暮らしを始めた私。
でも、その時の私はまだ社会人。「夢であった」浪人生活に入るのはその5ヶ月近く後のことになるのです。浪人生活が大学を保証しないのは当然のことですが、まだまだその前段階だった4月の桜でした。

貧乏話。そうかもしれません。あなたは特別。そうかもしれません。無意味な遠回り。そうかもしれません。もっと上手な方法があるよ。そうかもしれません。
でも私は私で、限られた選択肢の中で耐えて耐えて乗り越えたつもりです。
比較の問題ではなく、この私自身のことだからいとおしい。

いま、満開の桜が痛い君へ。

そのトンネルは永遠には続きません。いまを耐えた君だけが味わえる至福の桜に迎えられる日が必ず来ます。私が約束します。

明日から4月ですが、標高400㍍のこの地はまだ梅の季節のままです。

本物との出会い

高校を卒業した年の5月に予備校の事務として就職した私は、その年の12月にすばらしい先生と出会うことになる。数学のY先生だ。数学雑誌の編集長を長年つとめた人だった。ちなみにセンター試験の解答で、他の受験雑誌では10行ほどかかる模範解答が、この雑誌での解き方ではせいぜい3行だ。行間を読めない人には勧められない雑誌だ。エンジニアやお医者さんなど理科系分野の社会人、大学生などで受験生でなくなってからも購読し続けているファンも多いようだ。
この雑誌の編集長を20年もやっていたY先生が何故か雑誌社を辞め、予備校の先生になって私の目の前に突然現れたのだ。原稿を書く仕事は「飽きた」ので教壇に立つ仕事に興味をもったというのだ。

 新しい先生が入ると、その授業の様子を見にゆき報告するのは私の仕事だった。どんな経歴の先生でも、最初は基礎コースの授業を担当させられる。1階のそば屋から上がってくる汁の臭いの立ちこめる廊下に漏れてくるY先生の授業の声は、他の先生のそれとは全く異なる響きをもっていた。まだ顔もしらないY先生の授業は周波数が他の先生とは全く異なっていた。一言で言えば「伝わってくる」のだ。その予備校には400人ほど先生がいたが、どう見てもいきなり5本の指に入った感じだった。

他の先生の質が低いということではなく、そもそも良い先生とはそのくらい数が少ないということだ。身近に良い先生があまりいないからといって不満を持つのは「ないものねだり」だ。予備校というところに行ってそのことが良く分かった。そもそも良い先生の絶対数が少ないのだから仕方ない。だから、目の前にいる自分の学校の先生を信じて学ぶのがベストだ。感謝して学ぶことだ。学校の先生の悪口を言う生徒が散見されるが、これは生徒自身にとってもマイナスだ。変えようのない現実に不満を持つこと自体が勉強にとってマイナスなのだ。予備校の先生は当時、学期ごとの契約だった。だから、人気のない先生はすぐにクビになった。それも手紙一本で。その競争の中で生き残っている先生が400人だったはずなのだが。

仕事がらY先生の授業をのぞく機会に恵まれた私。やはり先生の授業は際だっていた。Y先生の何が凄いか。一言で言えば、インタレスティングなのだ。冗談もたまには言うが先生の話は「本質の話」ばかり。予習を全くしてゆかなくても面白くて仕方がない数学の授業なんて他にあるのだろうか。予備校には授業中に踊りを踊ったり、酒を飲んでみせたり、90分の大半をスポーツの話をして人気をとる先生などさまざまだったが、Y先生は王道を行きながらしかも授業の内容自体が興味深かった。

数学ってこんなにも面白いものだったのか!! 衝撃だった。Y先生の授業を全て受けたかった。昼間は仕事があった私は夜の授業をとることにした。火曜日の午後6時半から一コマだけ私の受けられる授業があったので、職員割引で講座をとり、毎週欠かさず出席した。飲み会があっても火曜日の「飲み会」だけは遅刻して参加した。火曜日だけは残業をしないようにした。1週間で唯一の楽しみがY先生の数学の授業を受けることだった。

数学雑誌関係では、その幹部も同じ予備校に出講していた。Mという先生だ。長髪で背が高くてダンディー。高級車のジャガーに乗っていた。東大の文科を出て数学の受験雑誌の幹部をしていた。予備校教務陣の評価も生徒達の評価も高かったが、ある日突然来なくなった。ある職員と個人的に親しくなったからだという噂だった。

M先生が亡くなったのもその雑誌の訃報で知った。結核を患ったのがきっかけで文系の人なのに「良い数学の参考書が世にない」のを憂えて数学雑誌の創刊を決断したということをその訃報の告知文で知った。ジャガーのM先生も苦労人だった。

Y先生はといえば白いワイシャツを腕まくりして、いつも同じ格好で電車で通って来ていた。同じ東大出なのにずいぶんと違っていた。Y先生は東大の数学科を出ていたかと思う。Y先生の訃報は3年ほど前、やはり同じ雑誌で知った。雑誌創刊時にはペンネームを使ってほとんどのページを書いていたということもその訃報で知った。

群馬大では東大出のS先生の数学の授業だけが際だっていた。2回しか受講する機会がなかったがそれはしびれるものだった。

私は予備校に3年3ヶ月勤めたあと、同じ予備校で浪人した。できれば東京の大学に入学して、Y先生の授業だけはその予備校で受け続けようと考えた。群馬大に進学した私はやむなくその計画を断念した。

10年ほど前まではY先生執筆の参考書はどこでも手に入った。数年前にふと欲しくなって書店をのぞいて愕然とした。ない!古書店にもない。なんとか探しまくってアマゾンで10倍以上の値段のものを買い集めた。
私の宝だ。

「本物」の先生は存在する。突然私達の前に現れる。

ところで、この私は本物になり得たか。

いやまだまだこれからだ。1ミリでもよいから本物に近づこう。

予備校の先生達の話は思いついたところから書き足そうと思っている。
今日もお読み頂き、感謝。

はなむけと入試論

新しい世界に飛び込み人達へ。

はなむけの言葉は沢山もらったでしょうから、私からは受け売りの言葉を。

私の恩師達の言葉です。

「友達と宗教や政治の話はするな。」
「麻薬と新興宗教だけは絶対にやるな。試してみるのもダメだ。」

強い口調で言われたのを覚えています。
いろいろな人達と交わり、様々な世界を体験してみることは若者の特権です。
でも、危険が全くないわけではないのですよね。
大病を患う前に少し免疫をつけておく必要はあるのでしょうが。

後戻り出来ない世界ってあるようです。


さて、

センバツ甲子園が盛り上がっています。わが県の桐生第一高校は再試合になったようです。群馬は最近どの高校が出ても強いので応援のしがいがあります。
と言っておいて、水を注すのも何ですが。
何故、野球だけ特別扱いなのでしょう。たしか、高体連と高野連というのは別だったような。野球以外の高校生達だって頑張っているのに。

私立、公立問わず、野球部が活躍することは他の競技で活躍する何倍ものイメージアップにつながるようです。知名度も上がる。OB達も喜ぶ。寄付も集まる。校長先生も鼻高々。
「何故」はどうでも良いからとにかく野球で強くなるのが生徒集めには有効なのだ、と皆さんお考えのようですね。
事実、そうです。高校訪問して感じることですが、キーワードは東大、医学部、野球なんですよね。良い悪いではなくてそれが現実。「何故」じゃないんだよね、って皆感じている。

もう一つの話題。

昔、ある高校で前期入試にディベートをさせた、と。二手に分かれてある問題について是とする立場と非とする立場に別れて議論で「勝負」させたわけです。
入試で議論ですか?
ある生徒は大活躍。相手を「完膚無きまでに打ちのめしました。」と。
結果、打ちのめした子は不合格で、打ちのめされた子は合格した。
まあ、私が現場にいた訳ではないので話としてだけ聞いおいてください。

時期がくれば前期試験はやめるのですからね。
今はそのタイミングを見計らっている状況でしょう。
あ!来年は前期試験ありますよ。

高高はかなり気合いの入った前期試験問題を作りますが、他の高校はちょっと問題作りを負担に感じているようですよね。
試験問題を作るのって大変なんですよ。公表されるのはプレッシャーですよね。徹底的にチェックされますから。出題ミスもありましたね。多くの大学が入試問題作りをプロ(予備校)に委託したくなるのもしかたないのかもしれません。

ちなみに私はプロに頼むのは賛成ですよ。塾や予備校の先生は試験問題に取り組むのが仕事ですから。教員の方々はそれ以外のお仕事が多すぎます。特に最近は多忙のようです。塾の先生は部活の顧問がないだけでも時間がとれますから。

まあ、公立高校の入試問題は良くできていますよ。さすがです。だから、齊藤塾では公立高校の過去問で直前演習を大量にするのです。「無難」だからです。「無難」の意味はというと、教科書の範囲をしっかり押さえた出題がなされているということ。だから取り組んだ結果、時間の無駄だったということがない。一部私立の問題などやらせたら悩んでいた時間が無駄だったということが少なくないのです。無意味に難しくしてある問題が混じっているのですから。

昔、前高に合格した子でしたが、偏差値は72くらいで公立高校の入試問題はいつも9割以上は解けていました。でも、ある私立の過去問をやらせたら7割も取れません。本人はショックを受けていましたね。全く気にする必要ないよ、と言ってやりました。結局その子はその私立にも上位合格したんですよ。私立は見栄もあり、問題を易しくできないという事情があるようです。振り回されたくないですね。どんなに優秀な子でも高校入試は人生で初めての経験。やはり、私達プロのアドバイスは必要です。安心するようですよ。

公立上位校を狙っている生徒の保護者からは、私立の難問対策についての要望が毎年ありますが、その対策の時間がもったいないといつも答えています。前高、前女、高高、高女でいいんだったら、全国公立高校の過去問を徹底的にやっておけば大丈夫です。それ以上の難問に挑戦している時間が惜しい。だって偏差値70越えていても失敗する子はいるのですから。難問が解けなくても合格しますが、普通の問題でミスしたら落ちますよ。上位校を受ける子はほとんどミスをしませんからね。だから、齊藤塾では私立対策は12月になってからです。公立の過去問は徹底的にやらせます。

首都圏の私立上位校を狙う場合以外は公立の過去問演習が一番効果的です。保護者の皆さんにこれを理解してもらうには少し時間がかかります。こんなことばっかりやってて大丈夫かと。齊藤塾ではこの方針でやってきてちゃんと合格しているのですから、信用して欲しいものです。

長くなってしまいました。今日はここまで。お読み頂き、感謝。




水芭蕉が咲きました。



水芭蕉の花が咲きました。

齊藤塾の裏庭に小さな池があります。
そのほとりに3つほど、小ぶりの花が咲きました。

これはずいぶん前に、私の母親がどこからかもらってきて植えたものです。
毎年、必ず花を咲かせてくれます。

水芭蕉は尾瀬に行かなくても見られるのです。

皆さん、水芭蕉の花はこの後どうなるかご存じですか。

この後は、もう少し大きくなってもっと開いて茶色くなって枯れます。
その後、実がなるのです。
トウモロコシの実を逆さまにしたような実です。

これは熊の大好物なのだそうです。
我が家の裏庭までは食べに来ないと思いますが。
齊藤塾から3分の矢倉駅、その裏20㍍のところには熊の寝床があります。
いつか写真を撮って見せましょう。
その駅を利用して何人も塾生が来てくれます。熊の寝床のそばの無人駅。
まあ、昼間は熊にはちあわせするようなことはないようですが。
まだ、3月、冬眠から覚めていませんし。

水芭蕉の葉っぱは縦に伸びます。夏には50㌢くらいの高さになります。
ホウレンソウの葉っぱを大きくして立てたような感じでしょうか。

いずれアップしましょうか。

この池にカワセミが来たことがあります。

池の金魚を狙って来たようです。
何とも美しい鳴き声。

羽を広げると目が覚めるほどの光った空色の尾羽がのぞきます。
はっとするほどの明るい空色。

写真に撮れたらアップしますが。

また、見たいものです。

カモシカや猿も見かける土地です。

柿の木には熊が登ろうとしたときの爪の痕が残っています。

そんな土地です。

(今日は卒塾生から大学に合格したとの連絡を受けました。努力が実ったね。立派な先生になってください。)

☆学習の極意:「量質転化」☆

中央中等の適性検査Ⅱで『継続する力』(児玉光雄著)の文章から出題されたことがありました。

『継続する力』の冒頭では、イチローはじめ多数のアスリート達を研究してきた児玉さんが私達に一番伝えたい「真実」が語られています。

児玉さんは『天賦の才能が天才をつくっている』という考えは明らかに間違っている、と言っています。生まれながらにして、天才として生まれてきた人間など一人もいない。一流と言われている人は、全てゼロからスタートして、日々の努力を継続させることにより、自らの才能を開花させた人達なのだ、と言っているのです。

『量質転化』こそ、あらゆる偉大なアスリートの共通点。この世の中で頭角を現したかったら、とにかく量を稼げばよい。つまり量を稼げば自動的に質は高まるのだ、と。

『量質転化』

何ともシンプルかつ重みのある言葉。
教育者に多いのは「ただ無意味に量ばかりやっても無駄だ。質の良い勉強をしなさいよ。」と言う人。
そのような人に限って、勉強の質を高めるための方法については触れません。
(「創造性」という言葉を乱発する人も同じ傾向にあります。いずれ考察します。)

質を高めるにはとにかく量をこなさなければならない、ということを教えてはくれません。
「最初から質など高まらない。まずは量をこなせ。トップアスリート達のように。」と教えるべきなのです。

 齊藤塾はその「量を稼ぐ」ための時間と場所、背中を押す為の指導を提供しています。

中央中等の試験倍率は毎年4~5倍ですが、出題者は試験日に出会った「受験者全員」に学習の極意は継続にあるという真実について考えて欲しかったのでしょう。

今日、伝えたいことはこれだけです。お読み頂き、感謝します。


そういえば、東大の後期試験の合格発表がありましたね。特筆すべきことはありません。
前高VS高高という観点からは早慶合格者数を見ても、前高41名、高高72名のようです。前高の奮起を期待します。そんなこと私が言う前にもう前高は動いているはずですが。


齊藤塾では今日新たに通知表を提示した生徒がいましたので、集計し直します。
3学期の通知表で主要教科の評定が

オール5またはオールAの生徒・・・・5名
あと1ポイントでオール5またはオールAの生徒・・・・4名

となりました。まだまだ増えることを期待しています。
塾長一人で教えている小さな塾ですが、生徒達は皆自らと戦って強くなっています。

その取り組みで社会貢献できますか?

今日の話は間違いだらけの勉強観、とでも題しましょうか。

まず、

「今、つまらなく苦しい勉強をするのは、将来ラクが出来る仕事に就くためだ。」

これは間違いです。

勉強は、将来ラクができる職業に就くためにやっているのではありません。将来自分や家族がラクな生活が出来るために、今苦しい勉強を我慢してやっているのではないのです。そもそも勉強は自分のためにやるべきものではないのです。

君が今勉強しているのは、将来社会に貢献するためです。君が好むと好まざるとに関わらず、人間という動物は社会を構成して支え合って生きるように出来ているのです。人間は一人一人が役割をもって社会というものを構成することではじめて全体として生きることができる。そういう動物です。単独で生きる、という選択肢はもともと存在しないのです。君は意識したことがないかもしれませんが、社会の構成員以外の選択をして生き延びられる人間はいません。

だから、君に役割ができ社会に必要とされる人間になって、社会から認めてもらえる人になってはじめて君も生きられるのです。社会の役に立つ人になることで初めて君自身も生きることができるのです。だから、君が今勉強しているのは社会の役に立つ人になるためです。「自分や自分の家族のため」などという個人的なもののために今勉強しているのではないのです。個人主義の時代かもしれません。一見、独りで生きる道もあるような錯覚に陥る人もいるでしょう。でも、人という動物には独りで生きる道はありません。社会貢献することで初めて生きる場が与えられるのです。どんな形で社会貢献するかは人それぞれです。
今日のその勉強、その取り組み方で君は将来社会貢献できますか?

次に、


「勉強するしないはオレの勝手だ、だってオレの人生なんだから。」

これも間違いです。君達が今勉強し、将来納税者となって日本の社会生活を支える人になるのは国民の「義務」です。勤労の義務と納税の義務は日本国憲法に挙げられている三つしかない義務のうちの二つです。「義務」である以上「オレの勝手だ」という選択肢はあり得ません。将来「勤労」し、「納税」できる人になること以外の選択肢はないのです。そもそも君がこの国に生まれ、今まで生きて来られたのもこの社会のおかげです。この社会を支えてくれている大人達のおかげで今まで生きてこられたのです。君に別の社会に生まれる選択肢がなかったのと同じように、この社会の大人達にとっても君を支えないという選択肢もなかった。社会はそうやって、逃げられない部分を受け入れる人達によって支え合ってできているのです。
働くことは国民の義務です。従って、働いて社会を支える人になるために今勉強することも義務です。義務ですから放棄するという選択肢もありません。嫌なら憲法を変えるか、この国を出るしかありません。でも、義務の遂行ができる大人になることはすがすがしいことですよ。



「君子、多能恥づ」(『論語』より)

全くその通りです。

どんなに天賦の才能の少ない人でも、今持っているその才能を最大限に伸ばすには一生かかっても時間が足りないのかもしれない。大人(特に教育者)は「何でも出来る子」を評価したがりますが、「多能」な人でも今持っている能力を全て花開かせるには人生が100回あっても足りないでしょう。君にも「自分はこれで社会貢献するのだ」と「一つの事」に絞り込み、他の全てを「捨て去る勇気」が求められる時がいずれ来るのです。その決断の時の「腹のすわった」姿に私はしびれます。君が天から授かった「その一つの事」を探すために今日の勉強があるのです。

今日はここまで。お読み頂き、感謝します。

(今日は終了式でしたね。今日通塾した生徒から提出された通知票の結果を報告しておきます。途中経過ということになりますが。オール5またはオールAの生徒が5名、あと1ポイントだったという生徒が3名でした。明日以降が楽しみです。下がった生徒が一人いました。良い刺激をもらいましたね。気を引き締めて春期講習に取り組み、次回に復活しましょう。失敗したと思ったその時から復活への一歩が始まっています。今月6日頃に実施された各中学校実施の校内実力テストの結果も揃い始めています。新中3生では合計点400点以上の生徒は今のことろ5名だけですね。第1回目としてはまずまずでしょうか。更に上げて行きましょうね。不本意な結果になった生徒も、ここをスタートラインとして着実に歩を進めましょう。先輩達の取り組む姿勢を肌で感じてきた君達は、今年の受験生の姿勢を真似るだけで良いのです。)

数学のデコボコと受験生

数学のデコボコの話から大学の話につなげてみよう。

以前紹介した小島先生はおっしゃっている。

「数学は、紆余曲折の末作り上げられてきたし、まだ完成からはほど遠いものだ。今の数学は、宇宙からそのままの形で降ってきたものではなく、数学者たちが歴史の中で悪戦苦闘して作り上げたものだ。その過程で、失敗も間違いもあったし、遠回りもした。だから、現在の数学にはその傷としての「でこぼこ」がまだたくさんあって、それで人は足をとられて転んでしまうのだ。数学につまずいたからといって、それはあなたの落ち度ではない。それは数学に「でこぼこ」があるせいなのだ。けれどもその「でこぼこ」は、数学の人間臭さだから、あなたはひょいひょいとかわして歩く必要ははい。転んだら、立ち上がればいいし、何度も転ぶならそこだけ迂回して進めばいいと思う。」

どうだろう。

小島先生は『大学への数学』(東京出版)で長く執筆し、現在は帝京大学教授の数学者、経済学者なのだが、多くのエッセーも執筆し「文系」的な頭脳の学生にも心強いメッセージを送ってくださっている。数学で「難しく見える」部分がその「でこぼこ」が主な原因だとしたら、私達の苦しみの一部は私達に原因がないかもしれない。

多くの生徒達は数学を完全なものだとう前提で学んでいないだろうか。私達の学んでいる数学は宇宙のどこに持って行っても通用するはずだ、と勝手に思い込んでいないだろうか。でも、どうもそうではないらしいのだ。小島先生は、数学はこの地球に生まれ育った私達と同じ人間が「悪戦苦闘して作り上げた」もので「人間臭さ」あふれるものだと言っている。人類の歴史の中で多くの先人達が「苦しみながら作り上げてきたもの」が今の数学だというのだ。

どうだろう。数学に対する見方が180度変わった人もいるだろう。この事実は数学者達にとっては当たり前のことなのかもしれない。しかし、このようなことを語ってくれる先生は中学、高校にはあまりいない。中学、高校までの先生にとっては、教科書の内容を教え込み生徒を希望の学校へ進学させるという大仕事が優先されるからだ。ある意味しかたのないことなのかもしれない。
 
大学というところは、小島先生のように本質を語ってくれる恩師と出会える場だ。だから、君達には是非大学に行って欲しい。

中学や高校の先生は、君達を上の学校へ進学をさせるという仕事を優先するあまり、教科書は絶対であるというようなスタンスを取りがちだ。だから生徒達は、先生は完全であり先生の教えている学習内容も完成したものだ、と思いこみがちだ。先生達も学習内容も必要以上に高いところに見えてしまう。しかし、大学にゆくと先生達は自分の興味関心に動かされて研究している。不完全で人間臭く、そしていとおしい人達が自分の専門分野で未知のものと戦っている。その姿に触れることで君達の視野は一気に拡大する。

「この分野ではここまでは分かっているのだが、この先が分からないのだよなあ。」などとつぶやいている。

苦しい受験勉強の向こうには、こんなにワクワクする素敵な世界が君達が来るのを待ち望んでいる。



今日はここまで。お読み頂き、感謝。

(齊藤塾では春期講習が始まっています。

新高1生は1学期中間テストまでの範囲を予習しています。入学前に次の戦いが始まっていますからね。

新中2、新中3生は大量の実践問題で5教科の総復習をして、来たるべき実力テストに備えています。

新高2、新高3生は今日も長時間学習してゆきました。下級生達も彼等の姿勢を横目で見ることで大学受験の厳しさを感じ取ってくれたことでしょう。)

続けるコツ

「努力」と「継続」とは同義です。継続している人だけを努力している人と呼びます。

「継続は力なり」と頭では分かっているけれどそれが出来ないのは何故でしょうか。

続かない人は最初のハードルが高すぎるのです。

目標が高いと言えば聞こえが良いのですが、はっきり言って欲が深く無謀なやり方をしているのです。ある意味自分に対して無責任。「頑張ったけれどだめだった」という答えをはじめから用意している人です。

実現できないような高く、理想的で、無謀で、非現実的で、自分の力を過信しているといっても良い目標を掲げておいて「目標が高かったのだから続かなかったのも仕方ない」と自分を甘やかしている。

これを断ち切るのです。

具体的には、「実現可能なレベルまでハードルを下げる」ということを実行します。徹底的にハードルを下げるのです。本当は問題を1日10問解きたくても、自分にとって「実現可能」な目標が1日1問ならばそのレベルまで下げるのです。そして、それを「必ず」実行する。「そんなペースでは受験には間に合わないよ。」とは絶対に言わない。実行できない自分に戻ってしまいますから。つまり実行することそれ自体を目標にするのです。

「自分は実行できる人だ」という成功体験を日々積み重ねることそれのみに集中するのです。これを毎日積み重ねることで徐々に自分の体が「実行できる人」に変ってゆきます。自分を変えるには毎日少しずつ体に(無意識に)覚えさせてゆくしかないのです。

だから、努力の人(=継続の人)になるには時間がかかるのです。最初の「ゆっくり」に耐えた人はもう昔の自分には戻りません。欲をかいて急にレベルを上げると体が反発します。ゆっくりだと体の方に変化する余裕が生まれる。体が納得して付いてくる感じでしょうか。勉強は体質改善にも似ています。だから、勉強とダイエットは似ている。何をすれば良いかは最初から分かっている。それを「やるかやらないか」だけです。実行するための時間と場所、指導者が備わっているのが自立型学習塾なんです。

ここまで教えてあげても「でも、それでは間に合わない。」とまだ言っている人がいます。
そして、今までの無謀なやり方をやってまた続かなくなり、「オレは続けられないダメな男だ。」を繰り返す人に戻ってしまうのです。

本気になった人は「まずはやってみる」ということが出来ます。



今日も一人入塾が決まりました。継続できる人になれるよう、少しだけ背中を押しましょう。

今日はここまで。お読み頂き、感謝。  高崎方面、梅が満開でしたね。

美をめでる心と数学

『国家の品格』で有名になった藤原正彦先生(お茶の水女子大の数学の先生。中学生用の教科書も書いている。有名な作家の次男)は私の好きな学者の一人だ。藤原先生によると、インドにノーベル賞級の数学者が多数輩出されている「村」があるそうだ。その村は他の村とどこが違うか。貧しい村なのに子供に才能があるとみたら、家の手伝いなどさせないで、とことん好きな勉強をさせる。勉強したい子には他のことよりもまず好きな分野の勉強をさせてやる。つまり、「勉強したかったのに貧しくてできなかった」ということが決してない。

それと、(これがおもしろいのだが)その村には「美を愛(め)でる心」があるのだそうだ。数学と美。関係がありそうでなさそうで、やはりあるのだ。

 ちなみに藤原先生は子供の教育について、「一に国語、二に国語、三四がなくて五に数学。」と力説している。

全く同感だ。大学で数学を教えている先生がおっしゃるのだから説得力があるといえないだろうか。藤原先生は東大の数学科出身だったと記憶しているが、大学時代にいくつかの外国語に挑戦されたようだ。「大学時代、余計な外国語などにうつつを抜かしていた時間が惜しかった。」ともおっしゃっている。外国語学習が無駄だという意味ではない。ただ、人の時間は有限だ。インドの村の親達の発想とダブる。



 人間は母国語で考えている。日本人は日本語で考えている。母国語がうまく使えない人は考えることが苦手なのだ。

日常会話レベルの話をしているのではない。中学生以上で求められている論理的思考力(大人の言葉)の話をしている。母国語で「考える」、「思いをめぐらす」ことで論理的思考力は鍛えられる。

 日本人だから日本語は大丈夫、だから英語を・・・と考える人は多い。そうに言っている人の意味する「日本語」はたいがい日常会話レベルの日本語だ。私の恩師(北欧言語と英語を自在に使える)の口癖は「日本語ができるレベルに応じて外国語ができるようになる。」だ。
 英語も日本語も中途半端になって、大人の言語が使えない帰国子女の苦悩(鬱病、ドロップアウト)については市川力氏の著書が詳しい。

外国語学習を否定しているのではない。誤解のないように。
優先順位の話をしている。

今日はここまで。お読み頂き、感謝。

勉強の近道

勉強の近道を教えよう。

それは、勉強には近道がないという事に早く気づくこと。

近道を探そうとして道に迷うのは山登りに限りません。
どこかに近道があるはずだ、と探している時間とエネルギーが無駄です。やっぱり近道は無かったと気づいた時には地道な人はもう遠くへ行っています。簡単には追いつけないくらい遠くへ。

抽象的な表現をお許しください。

私の考える「勇気ある人」のはなし。

死に物狂いで登ってきた山が自分の目指してきた山ではなく、となりの山が登るべき山だと気づいたときに「いっけねえ、間違っちゃったよ。」と言ってさっさとその山を下りられる人。そして、何も考えずに隣の登るべき山を一番下から少しずつ登れる人。このようなことが出来る人に出合った時に、私は震えるほど「カッコ良いなあ。」と思う。

何故カッコ良いか。

大半の人にはそれが出来ないから。

全てを捨てて一から出直すことなど、皆嫌だから。何とか微調整で乗り切ろうとするから。せっかくここまで登ったのだから、この山だって良いのではないか、この山も隣の山とあまり変わらないじゃないかと自分に言い聞かせる人が大半だから。だって、この山を登れってあいつが言ったから。最初から教えてくれればこんなことにならなかったのに、何故あの時に教えてくれなかったのだよ、などと人を恨んだり。

人間は動くのが嫌い。だから、動かしたくない事実に思考の方を合わせる。今自分が動かない「理由」の方を必死に探す。大半の人がそういう思考に陥る。だから、山を下りられる人はカッコ良い。

今まで積み上げてきたものを壊さなければ再出発などできない。

スポーツを極めた人達はほとんど例外なくこのようなことを乗り越えてきている。

楽な道だと思っていた道が正しい道ではないことに気づいたら、やり直したいものだ。
正しい道は君の目の前にある。地道に歩を進める人が一番の近道だ。
それに気づいた人はやり直そう。

それができる君を「カッコ良い」人だと称えよう。




どこかの成功法則本の一節のような語り口になりました。

中央中等適性検査対策で買い集めた成功法則本と語り口が似てしまいました。
適性検査対策では過去問の元ネタ本から同種の問題を選んで出題し、何度も書き直させるというやり方で鍛えています。同じテーマで3回ほど書き直すとかなり良くなりますね。

お読み頂き、感謝。
プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

齊藤塾合格実績・・・前高、前女、高高、高女、高専、渋高、渋女、高経附、佐久長聖中、中央中等、樹徳中、埼玉大、新潟大、群馬大、静岡大、高等工科他

* お問い合わせは下記問い合わせバナーからどうぞ。
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