三毛猫、さらにその後

1月の大雪の日に、我が家の車の下で震えていた三毛猫。

不自由な右の後ろ足を引きずりながら、健気に生きている姿。
冷たくあしらうのも忍びなく。餌をやり、湯たんぽを入れてやり、さらには北軽井沢で避妊手術までも。
しっかりと我が家の二匹目の猫になりました。

今では、こたつの中がお気に入りの場所です。
夜は家族の布団の上で当然の如くに就寝。

「そう言えば、噛まなくなったね」

家族全員の感想です。
この三毛ちゃんには、当初から人を噛む癖があったのです。
初日には、動物好きの次女が抱き上げた瞬間に頬を噛まれました。
実は、そんな「事件」もあった猫なのです。

それが、

いつのまにか噛まない猫になっている。

「きっと、心が安定してきているのね」

これも皆の感想。

攻撃的だった頃は人間不信があったのでしょうか。
幼いうちに、つらい思いを沢山経験したのでしょうか。

攻撃的になるには理由がある。
人間も同じでしょうね。

中学入試が終わりました。

中央中等教育学校受験生の皆さん、保護者の皆さん、お疲れ様でした。

佐久長聖中学受験生の皆さん、保護者の皆さんもお疲れ様でした。

長い戦いでしたね。

暫くは、頭を軽くして休んで欲しいと思います。

今回の戦いの経験は必ずや長い人生に生きてきます。

これまでの努力は、神様がきっと見ているはずです。
そして、良い結果をもたらしてくれると思います。



さて、

今日はひとことだけ。

突然ですが、いじめに関する仮説をひとつ。
それは、

いじめは「いじめている側」の存在確認だ、です。

いじめている人が自身の存在確認ができないために、人をいじめて安易にその確認をしている。
いじめは簡単に「結果」が見える形で表れる。だから、安易な確認方法。
自分の行為で人が苦しむ。
それが自己の存在確認になる。

厄介ですね。

人は自分自身の存在確認ができないと、大変不安定になる。
そのグラグラ感から逃れるための安易な方法。
それが、いじめ。
勿論、いじめられる側には何の落ち度もない。
いじめる側の視野に入ってしまっただけ。

人間は社会的動物。
だから、人に対して自分が行った行為で人が変わることで達成感が得られる。

建設的な行為でも達成感は得られる。
しかし、破壊的は行為の方が「簡単に」「一瞬にして」達成感が得られる。

何とも厄介なことよ。

あくまで、仮説です。

存在確認としての「いじめ」

恐らく人は、自らの存在確認が出来ないと、生きてはゆけない動物なのだろう。

自分は今ここに生きている。
確かにここに存在している。
その実感。
それをハッキリと確認できる何かを、人は求めるものなのだ。

そして、その「何か」は、必ず「人が」発するものでなければならない。
つまり、人は「自分以外の誰か」によって、自分の「存在の認証」を受けるしか生きる方法がないのだ。

多くの人は、家族や友人、あるいは教師達と接する中で、その確認は十分に取れている。
人との交流を中心とした日々の生活は、その確認作業の連続だからだ。

ところが、

何等かの理由で、その確認が希薄な人がいるのだ。
周囲の人と接する中で、自分の存在の確認ができない人。
自らの存在がぐらついている感じ。
生きてゆく上での土台となる存在の確認それ自体に不安を抱えている状態。

自信がない。
ぐらついている。
モヤモヤしている。
生きているという実感が持てない。

そんな感じ。

この不安定かつ希薄な心もちを「簡単に」解消してくれる方法がある。

それが「いじめ」だ。

ある意味、いじめる側も追い詰められているということだ。
存在認証に不安を抱えているのだから。

だから、このいじめは100%成功せねばならない。
従って、絶対に成功する相手を選ぶ。
このいじめに失敗でもしようものなら、いじめる側の存在そのものがさらに希薄化するのだから。
不安の解消どころか、窮地に追い詰められかねない。

絶対に成功する相手でなければならない。

相手をいじめている自分。
その自分は確かにここに存在している。
自分の行為によってひとりの「人」が涙を流して苦しんでいる。
それを見ることで、自分の存在そのものが確かなものへとシフトし始める。

いじめのネタは、いじめられる人自身の努力ではどうしようもない物が必ず選ばれる。

例えば、容姿。

或いは、出自。
親の職業。病気。などなど。

差別と通底するものがある。
だから、このいじめは「成功」する。そして、当初のささやかな存在確認の目的は歪んだ形で達成される。

(もう少し考察を深めて後で整理します。)


さて、今日も塾生達は期末テスト対策のため、長時間の学習に耐えて行きました。
テスト直前の土日。
勝負どころですから。
皆、ずっしりと重いプリントの束を持ち帰りました。

鬱積(うっせき)したものは、はけ口を求める

特に、社会に対して居心地の悪さを感じている人は、様々な不満などが鬱積(うっせき)してくるようだ。
自分は何が不満なのか、そのことに自覚的なうちはまだ問題は小さいと言える。自分自身の頭の中で言語化されている間は、まだなんとか整理ができているのだろう。

それが、「何だか分からないが不満でしかたない」という状態になってくると、危険水域に入ったと言える。

説明不可能な鬱積した不満が、発酵し始めてきた状態。発酵しながら自己増殖し続けている。

鬱積し、自己増殖した不満はそのはけ口を求めるようになる。そして、このはけ口は「必ず」人でなければならないようなのだ。人をはけ口として利用するときにだけ、鬱積した不満は初めて解消される。

だから、何だか分からない不満を持っている人は、そのはけ口対象となる「人」を探すようになる。

その人は「誰でもよい」。

通り魔的事件のように(一見)無差別になる場合もあるだろう。果たして、これが純粋に「無差別」と言えるかどうかは難しい問題だが。

はけ口として狙われた人に、明らかな「落ち度」がある場合には、鬱積していたエネルギーが爆発的に溢れ出してしまう。攻撃されても仕方のない程の「正当な理由」が存在するのだから。
「正当な理由」があって攻撃する場合には罪の意識がなくなる。だから、後ろめたさなどはゼロ。むしろ、人として同然の行為をしているという意識になる。正当な行為。

はけ口とされた人の「落ち度」は、多くの場合とても些細なことだったりする。それなのに、攻撃する側のエネルギーは溢れ出したら止まらない。次から次へと後を追うように溢れ出て来る。それは、鬱積していたものがなくなるまで続く。

私の、いじめの構造仮説。

あくまで仮説だが、これで説明できることは多いような気がするのだが。

「分かって欲しい」型いじめ



自分が如何に苦しいかを分かって欲しい。

誰でも良いから、この苦しみを分かって欲しい。

そして、全く無関係の人をいじめる。
いじめやすい人をいじめる。

「オマエはいつも呑気にしているから、私の苦しみは分からないだろう。
だから、分からせてやる。
オラオラ、苦しいか。
私は普段からこんなに苦しい思いをしているんだ。オマエ、少しは分かったか。」

パンパンに張りつめたストレスの爆発には違いない。
でも、それだけではない。

「分からせたい型いじめ」

そんないじめがあるように感じる。

人間はそれほど社会的動物なのだと思う。

通り魔的事件にも通ずるものがあるだろうか。
プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

齊藤塾合格実績・・・前高、前女、高高、高女、高専、渋高、渋女、高経附、佐久長聖中、中央中等、樹徳中、埼玉大、新潟大、群馬大、静岡大、高等工科他

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