貧困から学ぶ人、貧困を恨みに変える人

貧困はこの上ない先生である。
泣いてもわめいても避けられない貧困状態。
逃げられない貧困だからこそ、人は工夫することを学ぶ。
考えることを知る。
頭を使わねば生き延びることができないから。

そして、耐えることを学ぶ。

一方、

貧困は恨みにつながる。
自分を貧困に追い込んだのは理不尽な世の中だと気づく。
その理不尽さに耐えつつも、人は次第に恨みを募らせる。
不公平な世の中に耐えて耐えて・・・・。

そして、耐えきれなくなる。


「両面あります」という普通の話。

許せないものを許す



人は生まれてくるときに親を選べない。

気づいた時に、そこに親はいた。

幼少の頃、親は絶対だった。

だが、

次第に、親が完璧ではないことに気づき始める。

親に不満を持つようになる。

その不満は次第に恨みへと発酵してゆく。

自分に生を与えてくれたことなどは脇に置き、ぐるぐると発酵だけが独り歩きする。

「どうして私の親は・・・。どうして。どうして」と。

私達は忘れている。

親だって、完璧に準備してから親になったのではないことを。

日々、試行錯誤の繰り返しで、迷いながら「親をやっている」ことを。

完璧からは程遠いことは、親自身が一番よく分かっていることを。

だから、

許そう。

その発酵し尽くしたものを「とりあえずそこに置いて」許そう。

許せないものを許そう。
「絶対に絶対にこれだけは許せない」とあなたが思っているそれを許そう。

そこからでないと、次の新しい関係は作れない。




さて、


塾の方は、今日も単元テスト対策、実力テスト対策に追われました。ピンポイントで教え、演習量を十分に確保する。自立型学習塾の最大のメリットですね。



お手伝いは社会参加の第一歩

家のお手伝いをさせない家庭が増えているようだ。

そもそもお手伝いさせようにも、家の中に子供ができるような仕事がないのが実情のようだ。

不幸なことだ。

子供は体全体で自分の存在価値を確認するのだと思う。家庭は最小単位の社会だ。この小さな社会の中で自分の役割を自覚し、存在価値を肌で感じて、その結果小さな自信を積み重ねてゆく。日々の家族とのやり取りの中で、自分の存在を何度も何度も確認して行く中で自信を深め、その積み重ねの中から家庭よりも外に出てゆく「勇気」が培われるのだと信じる。

家族内での自分の存在を確認し、徐々に自信をつけてゆくには「お手伝い」が最適だ。
小さな子供でも、家族から「任された」仕事を完遂することで「認められる」という体験ができる。家庭内でこのような体験をして学びが得られるのだから、お手伝いは上手に組み込んで行きたいものだ。

任せられることで、その部分においては「一人前」扱いになる。その体験を積み重ねることで「自信」になり、ゆくゆくは家庭から飛び出すときの「勇気」につながってゆく。

最初は簡単なことから入り、徐々に「責任ある仕事」を「任せて」行く。勿論、失敗やさぼりは想定内だ。失敗やさぼりが出たときにこそ「親が試されている」ことになる。中途半端な対応でわが子を失望させるようなことだけは避けたい。

「一つお手伝いするごとに100円」などと言うのは論外だ。子供が学ぶチャンスを親自らぶち壊していることになる。まあ、説明の必要はないだろうが。

休塾日



今日は塾はお休み。

私は家族と群馬フラワーパークで遊んできました。

その前に渋川市北橘の郷土資料館で縄文土器、弥生土器、石器等の本物を見学。はやり、実物は迫力がありますね。

フラワーパークでは子供達はアスレチックやスライダーに繰り返し挑戦。それだけで時間切れとなり、迷路や室内展示は次回に持ち越しとなりました。

最後には、「世界の名犬牧場」で子供達は犬の散歩体験。ワンちゃんは暑さの為か疲れ気味でしたが、子供達は帰りの車の中で口を揃えて「犬を飼いたい」を連呼。さてどうしましょう。

夜はお決まりの花火大会へ。

早めに切り上げましたが、帰路の車に乗り込むなり子供達は即熟睡でしたね。

家族は社会

家族は最小単位の社会だ。

社会だからさまざまな軋轢や確執があるのは当然なのだ。

兄弟の話に絞って書こうと思う。

仮に兄と弟が取っ組み合いの喧嘩をしていたとしよう。
親はどうすべきだろうか。

1.喧嘩をまずやめさせて、両者の言い分を聞いてどちらの主張が正しいか判断し悪い方を叱責する。

2.兄の方が力が強いので、兄に対して「弟相手に本気で喧嘩するとは何事だ。もう少し弟には手加減しろ。弟が悪いかもしれないが、君はお兄ちゃんなんだから少しは我慢しろ。」と言いながら兄を引き離す。

3.弟に対して「弟なんだから、お兄ちゃんの言うことを聞きなさい。年上の人の言うことを尊重しなくてはだめだ。」と言いながら弟を引き話す。

さあ、正解はどれでしょう。

どれも正解ではない。

正解は「親は何もしないで、ただ見守る。」だ。

大怪我でもしそうだったら止めるしかありませんが。

子供達にとっては親は愛情を注いでくれる存在だ。その愛情を一人占めしたいのに、それを邪魔する存在がいる。それが兄弟だ。
兄弟は同じ環境で一緒に育つ身近な存在であるとともに、親の愛情を奪い合うライバルでもある。愛情のバランスが崩れ、ほかの兄弟に少しでも多く愛情が注がれていると思った瞬間、その愛情を取り戻しにかかる。

子供の立場からすれば、それは当然のことなのだ。子供は何も知らないで生まれてきて、全面的に親に頼らなければ生きて行けない。自分が弱い存在であることを自覚していて、頼れるのは親しかいないことも良く分かっている。唯一自分を守ってくれる人を奪われるかもしれないとなれば、全力でそれを阻止するのはある意味当然なのだ。

それほど頼られているのが親なのだ。
喧嘩の仲裁に入って、両者の言い分を聞いてなんらかのジャッジをしたとしても、それはどちらかが(あるはどちらも)「納得」できない。どちらも引けないから喧嘩になっているのだから、親が出て行って話を聞いたくらいでは簡単にジャッジなどできない。たぶん、永遠にできない。だから、結果としていい加減ににジャッジして「まあ、喧嘩は良くない。」などという中途半端な形で収めさせることになる。それも、ときには力ずくで。
その結果、子供には不満が残る。親に対する不満。
愛情を注いでくれるべき親が自分の言い分をあまり聞かずに、不満の残るジャッジをしたという事実だけが残る。
これは親から見て、どちらかが全面的に悪いように見える場合でも全く同じだ。「弟の物を力ずくで奪ったお兄ちゃんの方が悪い」というジャッジをしても兄には不満が残る。

「ああ、この人は自分をちゃんと愛してくれない。弟ばかりひいきする。」などという不満。
親を好きでたまらないのに、他に親はいないのだから愛して欲しいのに愛情が足りないという不満。自分よりも親から愛されていると思える他の兄弟に対する嫉妬。愛して欲しいからこそ抱く強い嫉妬。



喧嘩が終わるまで親は何もすべきではない。
子供達の喧嘩は子供達自身で解決できる。
彼等自身で解決した後でも不満は両者に残るだろう。
でも、その結果彼らは何かを学ぶ。

子供の喧嘩は子供同士で解決させる。そうすれば彼等は自分達で問題を解決する解決力、交渉力を身につけられる。家族という「ちいさな社会」の中にある納得行かない一見理不尽に見える問題と対峙できる。子供の喧嘩は子供同士の問題であるとともに、社会にある理不尽なことに対峙する経験を積むチャンスなのだ。

その貴重なチャンスを親が奪うことがあってはならない。
家族は「小さな社会」。この小さな社会で学んだことが土台となって、世の中で生きてゆく勇気が持てるようになる。世の中はもっともっと「大きな理不尽」に満ち溢れているのだから。


親がジャッジすることは学ぶ機会を奪うだけではなく、親に「不公平なジャッジをする大人」としての評価までついてしまう。
そのジャッジが(親としては)自分なりには両者の言い分を聞いたバランスの良いジャッジであったとしても同じだ。


喧嘩が終わったら、「さて、オイシイものでも食べようか。」とでも言えば良い。子供達がまた一つ何かを学んだお祝いだ。
子供達の問題は子供達自身で解決できる。そのチャンスを中途半端なジャッジで奪ってはいけない。世の中の理不尽に対峙する時の勇気を培うチャンスを奪ってはいけない。

ここまで読んだくださった方の中には、今一つすっきりしない感じが残っている人がいるかと思う。

「親は自分の子供をちゃんとした大人に仕上げて、社会に送り出す責任があるはずだ。未熟な子供達自身での解決が正しい解決だとは思えない。やってはいけないこと、やってよいことを子供にしっかり教えるのが親の責任だ。親は親として何が正しいかを自分の子供に教えるべきなのではないか。何もしないてただ見ているというのはその責任放棄ではないか。」という声が聞こえて来そうだ。

大丈夫だ。
子供は自分で学べる存在なのだ。無理のあるジャッジをして中途半端なルールを「注入」することはその学びを阻害するかもしれない。ジャッジが親子の信頼関係を阻害する危険は大きい。

自分の子供に社会のルールを教えることは親の大切な仕事の一つだ。
だからこそ、親子の信頼関係が必要なのだ。親に子供を信じる姿勢があり、子供に親の愛情が十分だという確信があれば子供は親が伝えようとする社会のルールを守ろうとする。
親子に信頼関係があれば、子供達は社会のルールについても何でも親に聞いてくる。「自分は間違いなく愛されている」という確信があれば信頼して聞いてくる。反対に「不公平なジャッジ」をする親のアドバイスは聞かない。信じていないから。

子供をコントロールしようとすることが様々な親子の確執の出発点だと考える。コントロールしようとしなくても、子供を社会に送り出せると考える。コントロールしようとしてもできなくて苦しんでいる親のなんと多いことか。コントロールしようとするから問題がますます複雑化してゆく。子供達自身が自分達で問題を解決できるという自信を獲得することの方が自立につながる。

この問題はまた後で考察する機会を持つ。

家族は最小単位の「社会」だ。その社会の中で子供達は今日も「必死になって」生きている。家族の温かみに包まれて「幸せ感」に満たされているだけでないのだ。




さて、

今日は高崎高校に合格したお母さんからメールを頂いた。いよいよ高高での生活が始まったようだ。念願だった部活への入部手続きももう済ませたらしい。復活を遂げた高高だ。これからの3年間は充実したものになるに違いない。

それと、前橋育英高校から東大に一人合格していたようだ。見落としていた。育英関係者のみなさん。ごめんなさい。群馬の私立高校からはこの1名だけのようだ。前橋育英は甲子園優勝と東大合格という二つの栄冠を勝ち取った学年だったと言える。


プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

齊藤塾合格実績・・・前高、前女、高高、高女、高専、渋高、渋女、高経附、佐久長聖中、中央中等、樹徳中、埼玉大、新潟大、群馬大、静岡大、高等工科他

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