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小さな一歩でよい

公立高校前期試験が終わりました。

前高の総合問題は知識も計算力も英語力も必要ですね。


さて、今日は・・・




図形の証明問題では、一本の補助線を引くことで、図形の見え方が全く変わることがある。補助線にはお決まりのものもあるが、多くはひらめきによるものだろう。ひらめきは、試行錯誤を繰り返せる人だけに身についてくるものだ。沢山の経験を積んだ人ほど、良いひらめきがやってくる。沢山の失敗をした人ほど、良い補助線が引ける。

「経験ってどうやったら積めるのですか」
とか、
「失敗を沢山するにはどうしたらよいのですが」
などと聞いてくる人は、全てのことに正しい道がある、という固定観念にとらわれている人だろう。

とにかくやってみる。それだけだ。

一つ動いてみる。それだけで「見え方」が全く変わってくる問題は沢山ある。
数学の問題に限らない。様々な「問題と呼べるもの」全てに当てはまることだ。

動かない人に限って、正しい動き方があるという固定観念に縛られている。
とにかく動いてみること。
これは書物では得られない経験だ。

読書は大切だ。当たり前だ。

しかし、書物に書いてあることの多くは「過去に結果が出たこと」や「多くの人が認めている共通認識」のようなものがほとんどだ。だから、書き手も「安心して」書いている。だって、結論については「保証付き」なのだから。だから、書物に現れているストーリーは結果からさかのぼって、逆方向からストーリーを組み立てているものが多い。結論が分かってから途中の筋道を整備している。丁度、迷路の正解のように。失敗した線は全て消し去って、正解のルートだけが示される。

騙されてはいけない。

この正解のストーリーだって、最初からこんなにきれいに組み立てられて来たものではないのだ。ボロボロの試行錯誤を繰り返し、みじめな失敗者達の屍の上を渡って来て、何とかたどりついた結論だったりするのだ。だから、教科書や参考書に書いてあることは「綺麗すぎる」。他の書物に書いてあることも「格好良すぎる」。そこにたどり着くまでの、ボロボロやドロドロを跡形もなく消し去って、あたかも最初から結論が分かっていたかのように書かれている。恥ずかしい失敗話はカットされている。

私達が知りたいのは、その失敗の方だ。見たいのは試行錯誤の記録。屍たち。

でも、それらはほとんど見せてはもらえない。

作家が自らの小説の推敲跡などを見せてくれることはまれだ。

しかたない。

だから、

自分の足で動くこと。
自分の手を使って補助線を引いてみること。
まずは一歩踏み出してみること。

「だって」と言う前に黙って歩を進めてみること。

ワクワクする世界がちらりと見えるかもしれない。全く違った視野が訪れるかもしれない。
動け!
小さな小さな一歩で良いから。


動くのは今この瞬間からだ。

明日からではない。

だって「小さな」一歩でよいのですよ。

本日、1名覚悟の入塾!

本日、1名覚悟の入塾。
夢の実現の為に頑張りましょう!



さて、今日は一言だけ。


屈辱をエネルギーに。

受験でも人間関係でも屈辱はを経験することは少なくありません。
その屈辱をエネルギーにすることはできるか。
屈辱をバネに、とはよく言われるのだが。

私の答え。

屈辱はエネルギーになります。
必ずなります。
屈辱のトゲは心の奥底に突き刺さって、簡単には抜けません。
だから、容易には忘れることはできない。

忘れられないことだから、日々の生活で甘さが出そうにあなったときに効いてくる。
「もう、あんな思いはしたくない」という形で。
忘れられないほどの悔しさは、忘れられないからこそエネルギーにとなりうる。

長い人生。
屈辱は早めに味わった方がよい。

小さな成功体験にこだわっているより、はるかに未来が開ける。

本を読むということ、とは

本は10回読め、という人がいる。

1回読んだのでは読んだことにはならない。
何度も読み返すことで、それまでの読み方では気づかなかった点に気づくことが多い。
だから、何度も読み返す。

それでは他の本が読めないではないか。
そうかもしれない。
しかし、繰り返して読まなければその1冊も読んだことにならない。
つまり、ゼロ。

中途半端に何冊も読むのと、1冊を咀嚼するのとどちらが良いか。
1冊の本が完成するまで、その著者がどのくらいのたうちまわったことか。
何度も何度も書き直して、ようやく世に出せるまでになったもの。
中途半端な読み方で、著者が伝えたかった本質を見誤りたくないものだ。

そういえば、塾のワークも同じ。

人類の到達した学問のエッセンス。
それが効率よく身につくように苦労に苦労を重ねて教材として完成している。
中途半端な使い方はしたくないものだ。
10回反復して欲しい。
それが自分にとっての「常識」になるまで。


・・・ということの確認でした。

自ら考えることはつらい

例えば、ある小学校の教室があったとする。児童達が常に担任の顔色ばかりうかがっているような教室。果たして健全だと言えるだろうか。封建的な教育を批判しているのではない。それは論外だから。そうではなくて、良いことは褒めろ。悪いことは叱れ。世間では「当たり前」とされているそんな教育観に疑問を呈しているのだ。そのような教育観をもとにした指導がうまく行って、児童達が担任の「期待通り」に行動したとしても、それで良いのだろうかということ。担任の立場から考えると、自分の思うように児童達が動き、場合によっては先回りして行動する児童達に囲まれたとして、それが教育者としての充実感につながるのだろうか、ということ。児童の立場から考えると、担任の期待通りに動けるようになった自分を自覚したとして、それで何かができるようになったという自信に繋がるのだろうか、ということ。

封建的な教育観は否定された。すると今度は、学校はサービス業だとばかりに父母達に対して下手に出てしまう。どうも、バランスの良い位置取りは難しいようだ。

「自ら考え自ら行動する」

言葉だけが踊る。では、自ら考えるとはどういうことか。勝手にやっていいのか。そんなことはない、と言う。では、どう行動するのが良いのか。それを考えるのが「自ら考えること」なのだ、と。それでは分からないではないか。つまり、スローガンだけ。雰囲気だけ。言葉だけ。
そういえば、「創造的教育」などと言う言葉もあった。創造的とは何か。独創的ならよいのか。いやクリエイティブなことだ。そんなの、英語にすれば分かったような気がするだけだ。何が創造的かをクリエイティブに考えよ(?)。

自ら考え、行動することは苦しくつらい。全く評価されないかもしれない。それでもかまわないというどっしりとした自信。苦しくてつらいが自分で考えて行動したというシビレル体験に裏打ちされた自信。

多様性

豊かさ」の定義
ある生物学者は「豊かさ」の定義を尋ねられて、即座に「それは多様性ですよ。」と答えた。

豊かとは多様なことを言うのだ。多くの種類が存在していること、それが豊かであることの証なのだ。
私達は生物なのだから、多様である限りにおいて豊かであることの確認ができるようなのだ。

私が他人と違うこと。それは良いことなのだ。私が私である限りにおいて、それは生物の豊かさに貢献しているといえるのだ。存在していることそれ自体での社会貢献。

突然ですが。

私達は他人の悪口をいうときに、ほとんど同じパターンを使っている。
「普通の人はあんなことをしないよね。」「普通の人はあんなこと言わないよね。」という類の言い方だ。
つまり、「あの人って変だよね」というパターン。悪口を言われている人が「変」であること。ある一定の標準から外れていることは、悪口を言われる条件を満たしていることになるのだ。「変な」人は悪口を言われてもしかたないという論理。いじめも「変な」人がターゲットになる。周りと違うことをする人。周りと同じことをしていない人。

これって生物学的にどうなんだろう。いじめって多様性を否定する行為になってはいないだろうか。いじめる側が考える標準から外れている人をいじめて排除する。この行為が期待していることの画一性って何だ。皆同じ枠の中に入っていることの安心感か。予想可能な行動を取る人たちの集まりの中で楽に生きたいのか。変な人を見るストレスが嫌いなのか。

そちらの方が変だと感じる感覚は持ち続けたい。
プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

齊藤塾合格実績・・・前高、前女、高高、高女、高専、渋高、渋女、高経附、佐久長聖中、中央中等、樹徳中、埼玉大、新潟大、群馬大、静岡大、高等工科他

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