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院内学級

以前、中央中等の適性検査問題Ⅱに、院内学級の子供達の作品を集めた書物から出題されたことがありました。

『電池が切れるまで』

重い病気で小中学校へ通えない子。
その子たちのために病院内につくられた学級。

それが院内学級。

苦しい闘病生活の中でも、お互いに励まし合い生まれた作品群。

小4の女の子に励まされ希望を失わなかった一人の少年がいた。

「お兄ちゃん、きっと治るよ」

そのひとことに支えらた少年は・・・。

今、

大学病院の医師として働いているとのこと。
そして、
自分と同じように「学べないつらさ」を味わっている子供達のために、小さな院内学級をつくった。

来年からの道徳の教科書にこの話が載るようです。





大きな努力で・・・


「大きな努力で小さな成果を」
逆ではありませんよ。

あの鍵山さんの有名な言葉ですね。
このような発想で生きていると、心が落ち着くのだ、と。
そして、社会も安定する、と。

「効率の良さ」とか「要領の良さ」とか。
「労せず」とか「うまく立ち回って」とか。

そればかりに捕らわれていると、心が不安定になる、と。

日々自らに言い聞かせたい言葉ですね。

大きな努力で小さな成果を得る。
そして、そういう生活に耐える習慣をつける。
その方が心が安定する。

くどい


努力とは継続のこと。継続とは小さなことを毎日続けることですから。
くどいですね。くどいと思われるくらい反復しないと定着しないような気がして。

応接室などに、よく「感謝」などの額が飾ってありますよね。以前は単なるスローガンだと思っていました。努力目標というか。掛け声と言い換えてもよい。できたらいいな、みたいな。

そんなことではないのだ、ということがこの年になって少しずつ分かってきました。

大切な言葉。

どんなに大切な言葉でも、毎日毎日その額を仰ぎ見て、心に刻み続けなければすり抜けてしまうものなのですね。「感謝」の文字を飾ったその日は、二度と忘れまいと心の底から誓ったはずなのに、日常にどっぷり浸かっているうちに「感謝」の心が欠けていた元の自分に戻ってしまう。それくらい人間は反省しないものなのでしょう。それくらい人の習慣というものは、固まってしまっていて動かせないものなのでしょう。「有難い言葉を知ったくらい」では結局は変われない。

その恐さを知っている人は、「感謝」の文字を額に飾り毎日仰ぎ見る。そして「感謝を忘れたあの大失敗」を繰り返さないようにと心に誓う。毎日誓う。そういうものなのでしょう。

本当に変わりたい人だけが、額を飾って毎日毎日その言葉を心に刻み続ける。くどいくらいに。
こんなに大切な言葉なのに、それは日常ににかき消されてすり抜けてしまう。
その恐怖を知っている人だけが、くどくなれる。

言うまでもなく、「感謝」は一例です。「根性」だったり「忍耐」だったりします。

「なんだよう、『感謝』とかいうこの額。だっせぇー」とか言っている人は、真実にたどり着くまでに大きな遠回りをすることになるのでしょう。

私も若干の遠回りをしましたが、この「当たり前の真実」を自覚できたことを嬉しく思います。

だから、私はくどい。

自分の弱さを知っている人はくどい。
くどいくらい反復しないと、今以上に弱かった悲しい自分に逆戻りしてしまいますから。

考えるきっかけ


哲学者の谷川徹三さんによると、「考える」ということの原初的形態は「我々が生活の中で何らかの障害に出合って、我々の意志が阻まれる場合、それに反応する一つの仕方」なのだと。

障害に出合わなければ考える必要もない、ということですね。

人は、考えなければ前に進めないような状況に追い込まれて初めて考えるということをする。何も考えずに日々過ごせる人が哲学的思考をすることなどあり得ないということなのかもしれません。

まあ、そうかもしれませんね。それほど人は怠惰なのでしょう。必要のないことはなるべくやらない。何らかの困った状況に追い詰められて、初めて頭を使い始める。何とか頭を使って乗り切ろうとする。考えなければ前に進めなくなって、やっと考えだす。

そう考えると、先人達が膨大な思考の遺産を残してくれているということは、それだけ先人達が様々な障害に出合って、その時々に思考せざるをえなかった。そんなな状況に追い込まれて、苦しみながら思考してきたということに違いありません。

受験も一つの障害ともいえます。

どうしても乗り越えなければならない。受験では様々なことを考える必要に迫られます。
深く考えるチャンスをもらったとも言えますね。(再掲)

頭の良さ


「あの人は頭が良過ぎて、説明が難しくて、私には理解できない」

ということ自体本来あり得ないのだ。

ポイントを押さえている話にはメリハリがある。

従って、何が重要なのかはその話を聞いているだけで自然に見えてくるものなのだ。

さらに、

聞いている人の方に「分かった」と感じた時の、鳥肌が立つような感動があるものなのだ。

深い話はシンプル。

話し手の話が理解できないのは、聞いているあなたの頭が悪いのではない。

話している人の頭が悪いのだ。
伝わる話をする能力がないのだ。

それだけではない。
聞いている人を煙に巻き、ある方向に人を誘導しようとしていることさえある。
こうなると厄介だ。



だから、

相手の話が分からないということは恥ずかしいことではない。

聞き手に分からせられない話をしていることの方が恥ずかしい。

プロフィール

齊藤塾塾長 齊藤茂

Author:齊藤塾塾長 齊藤茂
渋川高校卒業後、代々木ゼミナール(教務課)に3年半勤務。4年目の9月より浪人生活を送り、翌年4月に群馬大学教育学部に入学。卒業後、藤岡市、前橋市の大手進学塾にて前高、前女、高高、高女進学コース、附属中クラスなどを担当。平成9年に出身地の東吾妻町矢倉にて齊藤塾を開塾。以来トップ校受験生の指導にあたる。

齊藤塾合格実績・・・前高、前女、高高、高女、高専、渋高、渋女、高経附、佐久長聖中、中央中等、樹徳中、埼玉大、新潟大、群馬大、静岡大、高等工科他

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